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うににのに

さて、私が学んでいるコーチングスクールの最終コースがあと一週間で始まる。

8月、意気揚々と最終コースへ申し込んだ私がいた。これこそ私が人生でやるべきことである!ここから私は人生をやり直すんだ!となみなみならん熱量に溢れていた。

そして11月、現在、私の最終コースへの不安が日に日に大きくなり、夏の熱さは雲散霧消していた。
名状しがたい不安を抱えながら、現実としては準備をたんたんと進める自分との乖離でさらに不安が増強する日々……
これが最近の私である。


自分一人ではどうにも言語化できない不安という感情をコーチングしてもらった。


結論から書くと、
「なんとしても頑張り、褒められる私」がいつも通り前面に躍り出て、「頑張れないよ~~~だって仕事も大変なんだよ、疲れてんだよ~~~~~」て私に優しくしたい”私”を追いやろうとしていた。

頑張るって何を?コーチングをだね。質問をいっぱいして書面FBばんばんもらいにいって、いろんな人とコーチングしてさぁ……同期にもリードにもメンターにも褒められる私が私の”理想”

だけど、思い出してほしい。
私は私を救うために、その種が埋まってそうだと思ったからコースを受けようと決断したんでしょう。
誰かの背中を押せる自分になりたいとか、そうじゃなくて、必要以上に自分に厳しく自分の気持ちを殴り殺してきたような自分をもうやめたいと思ったんだよね。
だから自分に優しくしたいと思ったんだ。
その通り、私は私に優しくならないとたぶん、数か月以内に心も体も壊れてしまう気がしているんでしょう?

最終コース、思い描いていたような理想の私にならなくても、道半ばでしゃがみ込む私を私は許す…というより「もう十分だよ」と優しく肩でもたたいて欲しいと思ってる

だから、私は最終コースを”頑張らない”必要があるんだ
”頑張らない”ことが、そしてそれを許しながら進むことこそが私の旅の始まりなんじゃないかな


そんなヌルイこと言うなよ、それで誰がお前を認めんだよ
なんて声がチカチカ点滅している。壁にさペンキでそんな文字がデカデカ書いてあんだね。声ってか文字でそこに在る、てイメージがあるんだ…へぇ……

私は私に優しくしたいんだ、優しくして欲しいんだ
どんな結果でも怒らないでほしい、呆れないでほしい、失望しないでほしい、殴らないでほしい
頼むから、もう私には”私”しかいないんだよ、君と相棒にならなきゃ誰と相棒になるってんだい?
どうか、今の気持ちを忘れずに過ごしてほしい
辛くなったら、仕事もセミナーも全部ぜーーーんぶやめていいからね
それでも私は怒ったりしない
きっと君はこの感覚を忘れてしまうだろうから、ここに書いとくよ
君が振り向くことを私はずっと待ってるから
”理想”じゃない私も案外、いいもんだよ



はい……
この記事ちょこちょこ見返そう…

ここまで書いていて思ったけど、おそらく…ウソ、ほとんど確信したけど、私は”私”に失望されたり怒られたりするのを恐れているんじゃなくて、母親にそうされることが怖いんだよね。
私自信を責める言葉について、自分で思いついたものだと思っていたけど、実は母親が言った言葉ないんじゃないかと思う。
知らん間に規範を内面化するとかいうアレがアレするアレだったのでは…(ドレ?)

本当はさぁ、子どもの頃の私が何かやっちまって「わーどうしよう!」て困ってるときに「だからあれほど注意したのに」とか「どうしてやっちゃったの!?」とか、「なんで気を付けられないの!?」とか「もう知らない!」とかさぁ…そんなことより一言「大丈夫だよ」って言って欲しかったんだよね……間違いなくねぇ……

大人になった今、子どものやらかしに注意したくなる気持ちは痛いほど分かるし、母は母で余裕がなかった状況だったとも分かってはいる。
だからもう過去はしょうがない。

そうはいっても子どものころの傷ってそう簡単には治らんもので…
言ってやるしかないんだよなぁ、自分で自分に「大丈夫だよ」てさぁ…
菅原克己の「マクシム」て詩が刺さったのもこういうところかなと思う

<マクシム、どうだ、青空をみようじゃねえか>

私が私の肩を優しくたたく、てこの詩のイメージなんだよね
寝よう



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