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”殻”の世界にどっぷり

タイトル通りの文章を綴った。
私の「いのち行動」がそうであるから仕方がなし、閲覧する方々にはしばし私の”殻の中”を見学してもらう。
5000文字もあって長いので、結論から書いておく。

漫画描き続けたいっショ?じゃ独りよがりの漫画でも良くな~い?

である。お帰りの方、出口はあちらです。


さて、「いのち行動」とは何か?だけ少し説明する。
2024年2月~3月にかけて下記のセミナーを受講していた。(4期募集してる…内容が変わっている…!?)


コーチングにかかわるセミナーであり、自身の望む願いといった核を見つめ直す機会ともなった。
私が見つけた願いは「ありのままの自分で生きたい」とか「自分にとって楽しいことをして生きていきたい」とかそんな風であった。
受講から約1か月たち、その色合いがやや変化したのでここに記録として残しておく。
先に断っておくと、コーチングの話はほぼなく、漫画制作についてモダモダする話である。その辺踏まえてお帰りのみなさま、出口はあちらです。


話はやや迂遠に進む。

私は趣味でイラストや漫画を描く。
先週、5月のCOMITIA(オリジナル作品の即売会)に受かったことが分かったので、漫画を描かねばならないと意気込み始めていた。
正確にいうとイラストジャンルで出店するので漫画はなくても良いのだが(むしろスケッチ本を制作しなさいよ…)、私にはCOMITIAといえば漫画を出さねばという強迫観念がある。
COMITIAで漫画を頒布しないことは人生の敗北だ、ぐらいに考えているのだ。比喩か?いやマジだ。

数日前から1年ぶりにストーリー漫画に着手しようと浮かんだアイディアから文字ネームを生み出そうとしていた。(専門用語は説明せずにいくので気になったら検索してね)

いつもなら「どんな漫画を描くか」のためにコンセプトを考えていたが、どうもそれではストーリーが煮詰まる。(これもいつものことだが…)

そこで私は考えた。

「どうして漫画を描くのか?」、”描く”という行為自体に焦点を当ててみるのはどうだろうか?
そこにコンセプトやポリシーがないから描けないのではないか?とコーチ目線を携えた私は思ったわけである。


ここで話はさらに大きく外側に膨らむ。


私には漫画家になる夢があった。
子どもの頃からその気持ちを抱きつつも、初めて原稿用紙に漫画を描いたのは20歳の時(遅い)、そこから、持ち込みしては落ち込み、高速バスまで使ってセミナーに通ってみたり、どっスランプに陥り丸3年描かなかったり、ごく短い話を描いてお茶をにごしたり……真剣に筆を折ろうとしたこともある。

担当編集者がついたこともあるが、やりとりをするうちに、私は業として漫画を描きたいわけではないと分かり2か月でさよならなんてこともあった。
漫画という表現媒体が合っていないのだろうと、勘づき始めてしまい……それに気づくと心が潰れんばかりに苦しかった。


基本的に漫画は読者を意識して、読者に伝わるように制作せよといわれている。これは趣味も商業作品も基本のキになるところだろう。
特に後者であれば、自分の殻に閉じこもった独りよがりの作品ではデビューできないし、仮にできたとしても連載にこぎつけられるか、連載が続くのか、打ち切られない程度に人気がでるか……

つまるところより多く・長く読者に読んでもらうために、読者目線を持て、というわけだ。そらそうですね……

たとえ趣味であっても、基本は変わらず読者目線をもった方が多くの読者を獲得しやすいと考える。
読者を意識すること、それが是であり、そうあるべきだと私も信じて疑っていなかった。(ここでコーチなら読者を獲得することが一番大切なんですか?と問いたくなるだろう)

しかし……どうして困った。

私の場合、読者を意識すればするほど描けなくなるのである。
あまりに筆が重い……思い悩む間に描けなくなり気づけば1年経っていることもしばしば。
今回も今度こそ!と意気込んだが、やはり読者に伝わるようにと思えば思うほど何も思いつかなくなってゆく……自己満足の漫画は描けるのでなぜ他人を意識するとこんなにも描けないのか……

この苦々しいループを一生繰り返すのだろうか……漫画が向かないのでは?諦めれば楽になるのかも……と思い始めるのだが、それはそれで胸があまりに苦しい。飢餓感や焦燥感まで湧いてくる始末である。


このぐるぐるとループする感覚、コーチングでよく出会うソレ……苦しみの理由はそう、そこに私の”願い”が絡んでくるからである。

「漫画を描く」という行為はまさか、私の「いのち行動」だったのだ。

急に直線コースに入る。あと半分ほど。休憩は適宜とってください。


さて、私はまた考えた。

「誰かのために描く」を捨てきれないのだったら、未来の自分を「誰か」に代入すれば良いのでは?

未来の自分は最早他人…とはさすがに言い切れないが、「今ココ」の私とは一部異なる人間であるとは言えるだろう。
まず間違いなく、未来の自分なら「しょーもない漫画を描いていたなぁ」やれやれといった微笑みをたたえながら読んでくれる。
そこにどんな感情が湧き起るのか、もちろん今の私には予想しかできないが……

うまく説明できないけれど、将来的に創作活動を行っていなくとも、創作していた自分を斬り捨てず内包したまま人生という路を歩いてくれるのではないか。
そんな確信を持てると安堵し、焦燥感や飢餓感が薄まっていく。
おそらくだけれど、それは「自分で自分を認める」行為なのではないか。
それこそが”願い”なのではないか?


一旦、漫画制作から人生へと目線を移動させる。

これまでの私は、自分で自分の存在を認められないため、他者の評価を欲していた。


他者のgood評価を貰うこと=自分が存在していいと分かる、この式を強く潰れんばかりに握りしめて生きてきたのだ。

残念なことにそのgood評価効果は一過性であるため、様々な人や環境で「good」を求める行動をしてしまう。
だが、私が本当に求めているのは「自分から自分への承認」なのだ。
飢餓感は募るばかりである。

自分の内から湧いてくる「このくらいで良いんじゃないか?」という声はなかなか私の耳には届かない。
届いたとしても否定する声の方が強く、actionとして選択するのは後者の声から生まれたものだ。

そしてこのgood評価を私は「漫画」でも得ようとしていた。
「漫画」で他人に認められることこそが、仕事よりなにより私の人生そのものを肯定してくれると信じていた。
そうあって欲しい、そうであるはず、と信じきっていたのだ。

だから、「漫画を諦める」ことは私にとって人生の否定に近い。
漫画を通して認められたい、そんな全身全霊に五体を投げうち縋った願いは叶わないのだ……
それに気づいてしまった時、息が継げないほど喉が締まり胸がつんざかれるような痛みも走る。足元には暗く深い底なしの穴が空きそこをストーーンと落ちていってしまい一生這い上がってこれないのではないだろうかといった恐怖心もある。
これまでの経験においてこれほどの衝撃があるだろうか?怪我をしたわけでもないのに、この苦痛や恐怖はなんなのか?


これが、この感覚こそが、私にとってあるはずのものが”ない”世界なのだと、今更ながら肚落ちする。


私は自分の殻に引きこもることに罪悪感を抱き、駄目(マイナス)なことだと評価を下して生きてきた。
だから読者を意識した漫画つくりをせねばらないのだと、強く強く思ってきた。しかしそれを意識すればするほど、筆が重い。途中で作品を投げだすことも増え、手を付けようとする腰がずぶずぶに濡れそぼったクッションのごとく重い……。
リハビリと言い含めて自分だけに楽しい漫画ーー言い換えれば独りよがりのーーを意識して描けばどうにか描けなくもない。


ここに何が起きているのだろうか?

答えは「他者からの承認を得るために漫画を描く自分」がいて、
それは「自分だけでは自分を承認できない」「自分を信じることができない」からであり、
「他者のgood評価を貰って自分を確かめた」かったのだ。
他者の承認を得られない自分に自分で駄目だ・悪い奴だと烙印を押した。


だが……そう、だが、なのである。

もっと心の根っこを降りていけば、ぽっかりとした空き地にたどり着く。そこで静かに”願い”が呼吸をしている。
認めてほしかったのは「私」ただ一人だったのだと、そう、小さくつぶやいている。

私にーーー君に、褒めて欲しかっただけなのだと、体育すわりで小さくなった”願い”がしょんぼりとした顔でそう言っているのだ。
君が君のままでーー私が私のままであることを受け入れてほしい、”願い”はそれだったんだ……


私という人間は、身の内の殻の中に自分独自の世界を建設し拡大しつづける者である。良し悪しの判断なく見れば、そういう人間が”在る”だけだ。

ふとPC画面から目を離し、居住たるアパートの窓から外を眺める。視線まっすぐ「2」と書かれた団地が見える。2号棟の意味だと了解しているそれはそこに”在る”だけである。
視線を下方に向けよう、名を知らない草の群生地が見える。それらもただそこに”在る”だけだ。
買い物にいくのだろうか、団地の住人が歩いているのも見える。その人もただその人として”在る”。

つまり、殻の中の世界(街と言い換えても良いかもしれない)を殻の中だけで膨張させていく人生を選択したとして、そう選択した「私」が”在る”だけなのだろう。
自分の殻の中で描いた漫画もまたしかり。
他人に伝わらなかったしても、そこに罪悪感を抱く必要はない。

なぜなら、本来その行動自体に「何某かの選択をした私が存在する」以上の意味はないからだ。

社会的生き物であろうとする限りはgoodやbadの基準を持つことが必要であると、少なくとも現在の私はそう思う。
しかし、その基準によって私自身が存在すること自体の良し悪しは決定されない。”在る”こと自体は誰にも否定できない。

ここまで書いていて、”在る”だけなのだ、と言いながら私が存在しても良いと言える基準(ライン)を探しているなぁと感じる。
なんだかんだと言っても自分の”願い”を叶えることには不安もともなう。
今までの常識を木っ端みじんに破壊せねばならないのだからしょうがない。
そう簡単に思考の駅を新設できれば苦労しない。

様々な結果として「この選択をして良かった」と言いたい自分もいる。
誰かの賞賛が欲しいか否かと言えば欲しい。フツーに褒められたら嬉しい。そんな自分も居る。矛盾に苦しむ自分も居る。
自分の殻にこもった漫画で良いと思う私も、いやいや少しは読者を意識して…と思う私も。

しょんぼり座っていた”願い”がやおら立ち上がった。

君、君、こんなに内省してもなにも変わっていないなどと大仰にため息をつかないでくれたまえよ。
所詮、漫画を描く才能がなかったのだとくすぶる心が在ると見つめながら、どうしたら自分を認められる漫画を描けるか考えようじゃないか。
君はどうしたら良いのか分からないと項垂れるだろうが、何を手放せばいいのか、本当は知っているんじゃないかな。
知っていると気づいてしまうのが怖いんだ。怖いなら怖いで良い。今それを乗り越えられないと判断するならそれで良いのだと思う。
怖いけど、やれそうだ・やりたい!て気持ちが湧き上がってきたときに掴み切ることを恐れないで。掴み切れないことも恐れないで。
伸ばした手が空をきったとしても、それが失敗だと思っても、君を責める人はいないのだから。
私は私の選択を信じる、それだけは落とさないよう潰さないよう柔らかく抱えてね。
それで、新しい漫画は描きたくなってきたかい?

根っこにぶら下がったままの私は”願い”を見つめ、ゆっくり頷く。

あぁそれならいい。まぁCOMITIAに間に合わまなくても作れたらそれで、作ろうと思っただけでもそれでね、十分だね。

じゃあまた悩んだらやって来なよと”願い”にお尻を押されながら、私は根っこを登っていく。地上へ帰ろう。
上に上にと手を伸ばしながら、私の心が軽いままってコンセプトはよさそうだな…と独り言ちる。
地表では、緩んだ大気を運ぶように風がゆるりと吹いているーーーーー


よく分からないまま終わるーーーーーーーーーーー

なんだかんだと言っているが、面白い漫画を読んだらぐああああああどうしてこんな漫画が自分には描けないんだあああああああああああああああああああ独りよがりのせいじゃないのかあああああああああああああああああああああああああああああって七転八倒する未来が確実に見える。(独りよがり漫画は面白くならないんですか?→私の力量ではならないですね……)
面白いと思える漫画を一度でいいから描きたい人生だった……手放せないこの感情soそれは執念怨念終わりなき諦念?お前の信念揺るがす邪念yhaー(終われ)


「間に合わんくても十分」じゃなかったんか……



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