歴史ネタ(2)関ケ原

天下分け目の一大決戦、関ケ原の戦い。
徳川家康に石田三成が挑んだ戦いとして知られています。司馬遼太郎の有名な小説「関ケ原」でこの決戦に至る経緯が描かれ、NHKの大河ドラマでも様々な形で取り上げられています(三成がナレ死したこともありましたね…)。

ところが、一連の流れの中で、戦局に重大な影響を与えたにも関わらず、ほぼ無視されている戦いがあります。大津城の戦いがそれ。

大津城は今の滋賀県大津市、関ケ原と大阪の中間にありました。
ここの城主、京極氏が東軍に付き、わずかな手勢を率いて西軍に挑みます。このとき西軍は美濃(岐阜県)の大垣城にに主力を置き、徳川家康の到着を待つ東軍とにらみ合っていました。背後の大津城を放置することは許されず、西軍は大津城を大軍で攻め立てます。寄せ手のなかには九州の勇将として名高い立花宗茂もいました。この結果、西軍の主力の一角が大津に足止めされてしまいます。

日付だけ追ってみると、
・家康 大垣到着 9/14
・関ケ原の戦い 9/15
・大津城 西軍に降伏 9/15
となっています。

大津城の戦いがあまり知られていない理由は簡単で、司馬遼太郎の有名な小説「関ケ原」でほとんど触れられていないからです。同時期に真田昌幸が信州上田城でっは徳川秀忠率いる大軍を足止めしていますが、その経緯がかなり詳しく取り上げられているのと対照的です。

取り上げ方が違った理由は分かりませんが、おそらくストーリー上そうする必要があったのでしょう。家康は目の前の大垣にいる西軍をスルーして西に進みますが、この理由は小説では「城攻めが苦手な家康に大垣城攻めを回避させ、関ケ原での野戦に持ち込むため」ということにしています。この理由付けのまわりに真相が隠れているような気がしています。

日付だけ見れば、大津城陥落間近の報告を受けた家康が、目の前の大垣城をスルーして大津の救援に向かったと考えるのが自然です。一方の西軍は、大垣城を拠点に戦闘が開始されると身構えていたところで肩透かしを食らった格好です。背後で大津城攻撃隊が壊滅すれば一大事、と慌てたはず。

大垣から大津に抜ける経路を考えれば、必ず関ケ原を通ります。平地から山間の道に入る手前の盆地で、大軍を足止めするのに最適な地形です。東軍を先回りして関ケ原で迎え撃とうと、西軍は大垣から夜間移動を決行します(このくだりは小説でも出てきます)。

翌朝は濃霧、霧が晴れる前から戦闘開始。各武将が陣地の場所や当日の動きを巡って駆け引きしている余裕は全くありません。両軍が関ケ原で遭遇して、あちこちでばらばらに戦っているうちに決着がついてしまった、と考えるのが自然です。結果としてこの戦闘が歴史の流れを変えてしまったのですが、当人たちの動きは案外ドタバタだったのでは?と思います。

だとすると、関ケ原の戦いの真相はあんまり面白くない…。思い切って大津城をカットして、関ケ原の一大決戦に向かって家康と三成の思惑が期せず一致して、という物語にした方がスッキリしますし、断然面白い。

大津城の方ですが、関ケ原の戦いと同日の9/15に西軍に降伏します。日付が少しずれていれば立花宗茂率いる大軍が関ケ原に間に合い、結果が変わっていた可能性は大いにあります。秀忠率いる大軍を少数で足止めした信州上田城と、偶然にも同じ影響を戦局に与えたことになります。

関ケ原の物語で大津城が無視されてしまった影響か、真田正幸と比較して立花宗茂は大河ドラマでもほとんど出番がなく、その実力や実績に比べて知名度が低いままです。一度はこの人物を大河ドラマで取り上げてほしいのですが。

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司馬遼太郎という方は、小説家にも関わらず、膨大な文献調査と歴史を俯瞰するスタイルから勝手に歴史家扱いされて「司馬史観」などと言われます。注意深く読めば分かりますが、実際は歴史の事実を完璧に把握した上で、小説としてのフィクションをいろいろと織り交ぜています。ご本人は歴史家扱いされて心外でしょうね。


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