見出し画像

(S)AKASIMA

見知らぬ男が戸を叩き、郷土玩具を購えと乞う。

馬面の小芥子。青白い仔馬の耳飾り。馬の鬣で結わいた数珠玉。

「馬の物ばかりだね。」
「馬の物ばかりなのです。馬はお嫌いですか。」

さて、格別に愛憎の念は無い積もりだが、馬と聞くと如何しても、或る友人の、途方も無く長い顔が脳裏に浮かぶ。
特に歓待するでも無いのに、昨今、妙に頻繁に其の馬面を見せに来る、そんな友を迎える玄関に馬の人形を並べておくのは、矢張り少しく体裁が悪い。
「まあ止しておこう。玩具を喜ぶ様な、年頃の子も持たぬのでね。」
「そうですか。」
門前払いも慣れたるものか、執着を見せず去る背の荷を見て、思わず「君、」と声を掛ける。
見知った玩具を荷っていた。赤、黄、緑、派手に彩色された木製玩具。
「君、それは雉子車では無いかい?」
「キジグルマ。拙の国許ではキジウマと呼び習わします。キジ車、キジ馬、郷により呼称は様々ですが、恐らくは旦那の仰る物かと。まあどうぞ、お手に取って。」

確かにキジ馬であった。私は、此れを知っている。
痙攣する脳神経に「既知既知。」と信号が奔る。
私は過去に或いは未来に其の名を聴き、其の姿を見たのだ。
だが何時、何処で?

吾輩は問いである。答は、まだ無い。

□□□

「原稿が、未だ届かないのす。」と。
褒美の菓子を貰い損ねた狆の様な表情で、軽井氏が用件を切り出す。

何の事だか、話が呑み込めない。故に返事の仕様も無く、また適切な相槌も持ち合わせぬので、久方振りに対面した軽井氏の相貌を子細に観察するに留めるに、此れが如何にも異相である。と云って、創造主の手際を糾弾すべき程の不器量な造作では無く、何方かと云えば愛嬌を宿した顔面であり、禍福の秤で科学的に測定し得るならば、針は「マァ、ヤヤ、福相。」に振れるであろうと思われる。
顔のまなかに屹立して世間を睥睨掣肘する巨なり長たる鷲鼻隊長を慕い、目、眉、おちょぼ口の各兵卒諸君がぎゅうと肩を押し合い圧し合い寄り添う姿は、強固な組織的統率力を感じさせて頼もしく、或いは信仰の象徴たる大霊山と、それを見上げて裾野に群住する信徒衆の如き情熱的清廉の趣も、まあ観測者の体調や気分によっては、感じ無い事も無く、賽銭を放る程の畏怖の念は沸かずと謂えども、掌くらいは合わせてみたく成る。有難や、有難や。合掌礼拝。

「拝みたいのは、こちらなのす。小目地センセが如何しても、と貴方をご指名なのす。どうか原稿を、取りに行って欲しいのす。」
「虎彦が?私に?原稿を取りに来いと、そう云うのですか?随分と不躾な云い条ですね。」

小目地虎彦は奇縁と惰性で付き合いを続けている私の古馴染みである。両端を二頭の馬の尻毛に結んでせいので引かせた茄子の様な長い顔をした男であり、俗世に売文を試みようと云う不埒者、世に所謂職業作家であるが、文壇的評価としては未だ二流半、其れが玉稿を下賜するに御用の小僧を任じずに大の大人を呼びつけるとは、うつけ極まる大尽気取り、イヤハヤ恐れ入った。

「原稿と云うと例の、」
「勿論我が社の『カイビャク』なのす。弱るのす。締切りは疾くに過ぎているのす。」

『天地怪闢』は虎彦がその芸術的譫妄的闘争の主戦場としている怪奇文芸誌であり、異相かつ慢性鼻炎気味な軽井氏はその編集氏で在る。
やれ頽廃の美だ旧習の処刑だと衆目痴人の熱狂で迎えられ、正に飛ぶ鳥を落とす勢いを誇った創刊当初の興奮も去り、次第に鳥の方で危機管理能力を向上せしめたか、或いは射手の技術が虚仮威しで在ったものか、刊を重ねて猟果奮わず、ただ空を仰いで寝暮らす有様、酷評もされぬ代わりに絶賛の声も絶えて久しく、毀誉褒貶押し並べて皆無、膾炙どころか人口に灰砂して幾星霜、本屋の平棚は無論の事として、髪結い床屋の待合にも、路面電車の網棚にも、果ては銭湯の焚き付け炉台でも見掛けぬ所を見ると最早その実存こそが怪異、案の定、月刊が季刊と成り、春夏合併号と成り、今秋もまた深まって既に冬近し、詰まる処、瀕死の体。廃刊も間近いと思われる。それを今更、何の原稿を乞うやら書くやら、双方共に正気を知れた物では無い。

我らが虎彦先生が執筆したものと云えば、錬金術の秘法に取り憑かれた男が己の肉体と機械、そして世界との境を超えて、微分された時の中で賢者の石を求め歩く幻想詩篇『爪先回路』だの、八人乗り深海調査艇に見え隠れするもう一人の影、密室に蠢く暗鬼を精神病理的観点から軽妙に描いた空想科学小説『九人』だの、各頁の句読点を鉛筆で結ぶと犯人の名前が浮かび上がる、奇抜な仕掛けで物議を醸した探偵小説『唸リ電波』、更には金星の地下で目醒めた天輪王阿逸多と阿修羅王ヴィローチャナが、地球衝突の運命へと疾空するハレー彗星の上で互いのアートマンと呪術を放ち合う、未完の霊能合戦記『銀河弥勒』、村を襲い住民も家屋もすべてを呑み尽くした巨獣の胃袋の底で百の骸が百の死を語る陰惨たる生命讃歌『熊鬼殺し』、そして最新作はと云えば、右目と左目ふたつの視点から世界を切り裂き、其の間隙世界の心的風景を淡々と小声で詠み上げた新感覚俳句集『緑衣像』等、等、妄想と狂気の見本市、書く方も書く方だが、読む方も読む方だ。
イヤ、だからこそ、読む者は絶えたのであろう。

「執筆の為に出掛けたのでしょう?目的の原稿が仕上がったのならば、さっさと帰って来るなり、郵送するなりすれば良いでは無いですか。」
「社に宛てて、封書が届いたのす。しかし原稿では無かったのす。兎に角万事を友人に託すからと一筆、加えて貴方の名を記した別の封書が入っていたのす。それで斯うして、お願いに上がったのす。」
「すると私宛ての物を、封切ったのですか?」思わず気色ばむが、軽井氏は毅然と首を振る。
「決して其の様な無礼は犯さないのす。勿論、お気持ちは判るのす。取り扱う作品の性質に鑑みれば、屹度我々自身も薄暗く陰湿で偏執的で夢見がちな変態の集団であろうとの誤解は、敢えて甘受するのす。然し乍ら、臆面も無く法も人倫も穢すのかと問われるならば、それは時と場合とに拠るのす!」
時と場合とに拠られても困るが、いざ受け取って自ら開けて読む気も到底起こらない。厄介事に決まっている。行き掛かり上、思わず手にして仕舞ったのは一生の不覚である。

「抑の話が奴は一体、何処へ行ったのです?」
「おや、ご存知無いのすか?」
「ご存じ無いですね。こんな状況で無ければ、興味も持ちたく無い位だ。」
「センセはアミカサセンへ、取材に行かれたのす。」
「何です、それゃ。」アミカサ?センは船、いや仙か。
「網笠は地名、その山村に湧く泉なのす。」
「網笠泉、ですか。これ又、寡聞にして知らぬ存ぜぬ馬の耳で面目無い次第ですが、其処に何か、作家先生の病理的好奇心を刺激する、仄暗い謂われでも在るのですか?」
「泉とは云っても平凡な温泉なのすが、実は近くに大鳥居から伸びる無限階段が在って、其の無限の果ての天上界に、天狗が住んでいるらしいのす。」
「。。。其れは其れは、どうも重ね重ねで恐縮だが矢ッ張り何です、それゃ。蒸気機関車が鉄路を走ろうと云うこの文明の世に、天狗の住処?ははあ。参りましたね。どうにもみなさん、お気楽なものだ。羨ましい。」

珍しく洋装に身を包んだ虎彦を中央駅に見送ったのは、十日程前の事である。馬面の男に餞の儀なぞ洒落が効き過ぎて笑えないが、要は見送りと云う体の鞄持ちであった。ちょいと近所を歩くのにさえ装訂本を手放さぬ男のこと、長旅とも成れば如何ほどの紙束を詰め込んだやら、革張りの箱鞄はとても片腕では運び切れぬ重量が有った。
「疲れるだろう。まァ休み休み行くさ。発車時刻には、まだ随分と余裕が有る。」
優しい言葉を掛けて下さるご本人様はと云えば、ステッキ代わりの雨傘を小粋に振り振り、汗ひとつ光らぬ涼しい顔で紙巻煙草を吹いておられる。
「手を貸したいが、出立前に上等の外套を鞄で擦っては興醒めだからね。格別に繊細なのだよ、生地が。」
気が滅入るほどに長い歩廊を往きながら、頻りに外套と腕時計とを自慢する。
「両品共に英国仕立てサ。逸品だよ。」
「ふむ。さて英国製が、そんなに偉いかねえ。」
「だって君、セークスピアとブレークとを産んだ国だよ。」
「セークスピアは偉大かも知れぬが、この場合は関連が無いだろう?別に彼が、君の外套を夜っぴて縫い裁ち繕った訳ではあるまい?」
「妙な理論を持ち出すね。ふふ、セークスピアのお針子か。ふふふ。」
ご機嫌である。

外套を縫製した英国人が何色の髪で在ったか、其れは知れない。
だが『以前の所有者』は、白髪交じりの長髪で在ったと云う。

虎彦の外套は、死人の遺品で在る。然も、見知らぬ死人だ。
「悪い葬儀屋が在ってね。」と虎彦は笑う。
「故人を着飾って送り出したいと、涙の遺族が為着せた衣装を剥いで、素裸で棺に入れるのだ。焼いて仕舞えば灰になるだけ、成らば現世で役立てましょうと、寧ろ善行の積もりなのさ。利口な奴だ。」
「で、更に利口な君子が、悪党の上前を撥ねたと云う訳かい?」
「此れが着てみると、誂えた様に俺にぴったりなのだよ。」
「何をか云わんや、常人ならば試みに袖を通してみる気も起らん。では真逆、腕時計も?」
「此れは外套の、内隠しに這入って居たのだよ。大層得をした。」
「呆れたね。利口では無く利己だよ、一体爛れているよ、君の脳髄は。」

そんな会話を思い出し思い出し、手元の便りの封を切る。厚い束だ。嫌な予感は強まるが、観念して、目を通す。。。

私は虎彦の手紙に目を通す。素早く視線を奔らせる。文字を辿る。辿り着いて、引き返す。目を閉じる。もう一度、読む。目を閉じて読む。脳が軋む。疑義々々。義理々々。脳が軋んで音を出す。頭蓋を開ける。脳味噌を開ける。引き出しを開ける。幾つも開ける。幾つも幾つも、私は脳の引き出しを開ける、激しく。摩擦で脳神経が灼ける、焦げ付く、痙攣する。私の脳神経が痙攣する。電気信号が明滅する。「吾輩は問いである。答えはまだ無い。」否、在る筈だ。文字を選る。慎重に摘まんで放り込む。付箋を貼って分別する。嘘と誠。誇張と矮小。煩雑と簡略。私は其れを分類する。素早く正確に遂行する。ひとつの引き出しを施錠して、他の全てをもう一度開く。取捨と選択。余分を除き、少しだけ足す。再び閉める。全てを閉める。施錠する。鍵は呑み込む。もう開かない。もう安心。

「成程。」と私は云う。便利な言葉だ。理解でも無い同意でも無い然し前向きに響く相槌。「成程、判りました。大事な友人の、親友の、命懸けの仕事だ。微力乍ら是非お役に立ちたい。」
「助かるのす。どうか宜しくお願い申し上げるのす。」
「そこで、」と私は重ねる。「少しばかり用立てては戴けませんか?何分にも急なお話で、恥ずかしながら懐中が心許無いようだ。帰りの旅費は当然小目地君に負って貰うとして、そうですね、まあ十円程。」
「や、それは少々、高いのす。経費として六円持参したので、それをお渡しするのす。」
「勿論無理にとは申しませんよ。其方にもご都合が有りましょう。足りない分は途中から歩き、野山に庵を結び、獣を追い鳥を撃ち、湧水を啜って何年かけても、生涯かけてでも、屹度辿り着いて使命を果たす所存ですから、ご安心を。」
軽井氏は、草むらに隠された狩猟罠を捜す狆の様な顔で私を見る。
「お心掛けは大変ご立派なのすが、そんな時間的猶予は無いのす。原稿が無ければ本は刷れず、本が刷れなければ会社は潰れ、会社が潰れれば社員一同裸でかっぽれを踊ることになるのす。」
「中々の演目ですね。どうせ踊るなら空き缶を並べて、道行く紳士から銅銭の慈惠を乞うてはどうでしょう。」
軽井氏は一瞬、黒目を寄せて天に向け、費用対効果を勘定する大学出の狆の様な顔附きで口を噤む。
「いや、矢張りそれは最後の手段なのす。ではぼくの財布から二円を足してお渡しするのす。」
出すが早いか、極めて紳士的な野盗ほどの礼儀を以て頂戴仕る。ああ有難い。
「ああ有難い、個人的な餞別と云う訳ですね。」
「いや、飽く迄も此れはお貸しするのであるすから、屹度、」
「屹度、お土産を買ってきますよ。お約束します。田舎とは謂え、まあ饅頭か、木彫りの馬くらいは在るでしょう。」

脚に喰い込んだ鋸刃を眺める狆の様な哀切な表情で、軽井氏が去る。去りながら尚「受取を、」と震える声を出した様で在ったが、突発的一時的に聴力の衰えを覚えた私には残念ながら判然しない。
寂しい背中が横町の角を曲がる。私は其れをしっかりと見届け、尚、口中に百を数えてから、最寄りの暖簾を撥ね上げる。ああ有難や、さあ、さあさあ!
赤か、青か、暖簾の色も、染め抜きの文字も見る間は無い。蕎麦でも鰻でも何でも御座れ、品書きなんぞ掌に乗せる積もりもない。懐の八円、撒き散らす。「麦酒と酒、良いと云うまで並べてくれ、さァ!」

引き出しの錠がカタと鳴る。
問いが在る。答えも在る。
私は知る。私は知らぬ顔をする。

□□□

どうせ、来やしないだろうね。
まあ今宵の飲代を稼がせてやるから、熱き友情に感謝し給え。

鉄路を西へ西へ、車窓を眺めれば山の姿も其処に萌え出でる植生も、徐々に段階的に変容して行く。変化の度合いは帝都からの距離に比例して深まり、広葉樹の紅葉具合、人家の屋根の形状、駅舎灯の明度、果ては墓石の色にまで差異を覚えて、次第に見知らぬ世界と我が目に映る。本邦の長大さ、その多様性を再発見する思いだ。
中で最も違いを感じさせるものは、何か判るかね。
それは人だ。人の顔と、言葉とだ。それは俺の知る『人間』とはまるで違う。眉の太い、顔掘りの深い、浅黒い体皮の人びとが、呪文のような言葉を乱暴な発声で遣り取りする。其れは一種の動物園だ。俺は異邦人であり見物人で、詰まる所この地の異物だ。郷に入れば、郷に。肝に銘じておこう。恩賜上野では、檻の狒々から糞を投げられた気の毒な紳士が在ったそうだからね。

端からつい、駄弁を弄した。子細は省き要点のみ、だがもう少しだけ、当地の事を語ろう。
四方を山々に囲まれた盆地は朝に夕に濃霧に閉ざされ、外界とは地理的にも心理的にも徹底的に隔たっている。東西に八里、南北に四里ほどのすり鉢の底、僅かばかりの平地は急流河川とその支流とに蜘蛛網状に寸断尺裂され、文明人の生息域足り得ない。繁木を伐り倒し斜面を削った不格好な土地に張り付くように幾つかの侘しい集落があり、そのひとつが此の網笠郷だ。鄙びた村さ。いや其れでは生易しい。鄙び果てた、鄙び尽くした、まあそんな村だと思えば間違いない。天狗の一個師団くらい、潜んでいても不思議は無いね。

いや、天狗の事は忘れて構わん。時宜を得れば筆に起こすが、其れより先に先ずは記すべき事がある。

赤い温泉の話だ。

宿を中心に差し渡し四半里ばかり、集落の地下より湧出して湛えられたる泉水は七つだか八つだか、濃淡に差異は有れど、総じて赤光を帯びて居る。成分中に鉄を含む由だが、其処に夕霧越しの陽が漏れ落ちるとなれば奇観も尚更、色も匂いも血の海を連想させて、仄かに猟奇味が在る。
折角だから俺もご尊体を浸してみたが、正直、閉口したよ。
まず足下が、ずるずると頼り無い。湯殿に石敷きなぞせず、粘土質の地表も剥き出しで湯を溜めて在るのだ。尻を預けるのも不安だが、踏ん張ると足指の間を粘土が舐める。参ったよ。三十六計逃げるに如かず、以来眺めるだけにしている。
加えて、矢張り秘境には秘境並みの文化しか根付かぬものと見えて、村の年寄りなどかけ湯で体を流してから湯に入る知恵も無いようだ。公衆衛生観念の面に於いて見ても、阿波岐原にてざんぶと目鼻を洗顔した伊邪那岐命の時代から、捗々しく発展しておらぬものらしい。他所の湯治宿が如何な仕組かは知らないが、少なくとも網笠では日毎に湯を変え湯殿を磨くような習慣は無いようだ。まあ源泉の湯量も豊富で、流れ込む側から傍へ溢れている塩梅だから、天然的に泉水の入れ替えが行われている訳では有る。
それでも年に一度、羣鳥も羞を養う時期になると、郷を上げて『湯浚え』なる行事を執り行うらしいが、これはまあチョイと大掛かりな湯殿掃除、我ら庶民にはお馴染みの井戸替えの様なものだ。広いものは大人が十人寄って手脚を伸ばしてもまだ余る様な泉で在るから、すっぱりと湯を抜いて底の粘泥を乾かすだけでも丸一日、いや二日余りは掛かろうと云う大事業なのだそうだよ。のんびりした話だね。

この郷で一番大きな温泉は、宿の端に在る。否、大きな温泉が在るから、端に宿が出来たと云うのが正しい物の順だ。さかしまにしてはいけない。
聞いて傑作だが、地の者は此れを『かるま池』と称すのだ。
カルマ池だよ?どうだ、あんまり振るっているじゃァないか。如何な由来か知らないが、とても泥沼温泉に付す名では無いだろう?

しかし実を云えば、俺が先の予定を逸して尚当地を離れられぬのも、此の赤い泉の業の所為なのだよ。

「其れは其れは、綺麗な眺めで御座いますよ。」
宿の女将がうっとりと、美酒で口を漱ぐ様な声で云う。「湯を浚えますと、水底に陽が当たりましょう?」
「ぬるぬるのぐにゃぐにゃの、粘土にね。」
「マァ意気地の無い仰り様。あの土の滋養こそが、温泉の肝なンで御座いますよ。」
「ウンウン、まあ好いさ。其れで?」
「曼珠沙華が、咲くので御座います。」
「咲くって、何処に。」
「ですから、一面に。湯の底にも。一度に、一杯に。」
「へえ驚いた。そうも揃えた様に、野の花が一遍に咲くかねえ。其れとも、曼珠沙華にも議会が在るかね。討議評決の結果満場一致をもちましてさあ明日咲きましょうと、成程此れは恐れ入った。植物界に於いても、政治制度の改革は進んでいるものらしいね。」
「また冷やかして、意地悪な作家先生ですこと。」
「科学的な見地から、疑義を呈しているだけサ。」
「だって実際にそうなんですから。」

赤い温泉。赤い湯に咲く赤い花。

女将に拠れば、ひと度此の湯に身を浸ければ万病宿業大罪すらも祓うと云うからルルドの泉も斯くやの効能、お釈迦様もエスクリストも頭を垂れるご利益だ。
「如何だろう、近隣に病院と刑務所でも建てて患者囚人裸で並べ、順に沈めて見たら、さぞ愉快だろうねえ。」
「そう珍妙な事ばかり仰っては困ります。」
「女将の云い条が、珍妙なのさ。」
気を悪くしたと見えて、ぷいと奥へと下がってしまう。
この女将、云う事は蒙昧だがこんな秘境の産とも思えぬ、妙に小奇麗な顔立ちの女なのだ。何処か東国から嫁いだものかとも考えてみるが、郷の現状を観察するに流石に考え難い。いや女将だけでは無いのだ。この郷の者はどれも、道中に見かけた南方的動物園的紳士連とは、少しく容貌を異にしているように思われる。さては山深い隠れ里のこと、或いは遥か源平の合戦を落ち延びた、伊勢平氏の血でも流れているのかも知れぬ。
「実はそうなんで御座いますよ。」と、盆を持って戻った女将が笑う。怒って逐電したのでは無く、茶を淹れ直して呉れたものらしい。
「そうって?」と水を向けると「ですから、平家の落人。」と自分の鼻の辺りを指す。
「ほう。」と感心した声を出して見せたら、鼻を仰ぐように掌を振ってアハハと威勢良く笑った。
世間話を続けるうちに些か気慣れて来たものか、言葉遣いも態度も、少し砕けたようである。
「まァ本当の事だか如何だか、今となっちゃ判りゃしませんけども。アミカサも、古くは網で無く編と書いたそうで、編笠を深く被って顔を隠した者の里だと、そんな由縁を話す年寄りも御座います。」
そう云えば、宿の屋号が『伴』。伴とは「平の人」を秘して崩した姓であると、何かで読んだ記憶が有る。
「ホラ、そこに玩具が御座いましょう?キジウマと申しまして、此れも落人が都の暮らしを懐かしんで作ったものを倣って、今に伝わるのだと聞き及びます。」

奇抜な意匠だ。色も奇、形も奇。キジウマとは云うが、何を模したものか見当付かない。此れを見て京を思い出すと云うのならば、京とは気狂い妖怪変化の住処で在ったかと思われる。あなおそろし。
「変だよ。此れは、変だ。」
「アラ可愛いじゃァありませんか。」

軽い笑い声を後に残して、今度こそ女将が退場する。

飯の時間にはまだ間がある。鞄の底から原稿用紙を取り出して、眺めて、眺め飽きて天井を見上げる。何かが、気に掛かる。

変だ。此れは変だ。何処か見えない箇所が在る。
赤い温泉。赤い湯に咲く赤い花。とても本当とは思われない。
否、本当かも知れない。仮に本当で在ったにしても。矢張り変だ。

此処は、何かが、さかしまだ。

□□□

私は今夜も呑んでいる。預かった金はもう無い。宵の口から今朝までかけて全て胃の中に呑み込んだ。だからもう、金は無い。
日が暮れると、不安になる。
馴染みの酒屋を口説き落として、付けで洋酒を購った。此の店にも随分と、払いが溜まっている。
「私じゃない、友人の陣中見舞でしてね。作家なのです。それが大作を、傑作を、執筆中なのです。文学的金字塔です。上等の酒でも差し入れて遣りたいが道中運悪く財布を遺失した様なのです。いや参った参った。情け無い事だが今更悔やんでも遅い。今後は気を付けます。耳目専心戒心し、財布には紐を付けるとしましょう。芸術への投資だと思って、是非。何?本当ですよ。私じゃない、私は酒なんか呑まないんだ。一滴たりとも呑むものか。嘘なものか。何だ其の言い草は。取り調べか。巡査気取りか。客を客とも思わぬ店だ。いや其処を何とか願いたい。ね。次は屹度、揃えてお支払いしますから。何だ。如何云うんだ。こんなに頼んでも駄目か。其れほどに金が大事か。鬼か。守銭奴か。地獄に落ちるぞ。いや勿論良い意味で云ったのです。ねえどうか今日だけ、今回限り、何卒、何卒。ねえ?」
酒は惨めだ。情け無い。だが呑みたい。呑んで眠れば脳の痺れもひと時、緩む。
違う。呑むから脳が痺れるのだ。判っている。
いや違う。呑まねば更に、痺れるだけだ。判っている。
判らない。兎角、浮世はさかしまだ。

結局私は呑んでいる。呑みながら、時折頭骨を開いて見る。

引き出しの錠がカタと鳴る。過多と。過多過多と。
揺れた僅かな隙間から、言葉がするり顔を出す。

赤い温泉。赤い湯に咲く赤い花。

さかしまなのだ。其れは。
清めた湯底に、花が咲く。然し。花も何時かは萎れ散ろう。
花が咲く故、咲いた花が腐乱する故、花が、泉を汚す故に、其処は再び清められねばならない。
順番が違うのだ。
花が咲くのは、湯を清める前で無ければならない。
湯を清めるのは、花が枯れ散った後で無ければならぬ筈だ。

花。泉。落ちる花弁、受けて往く水。落花流水の情ありて。
魚、心あれば、水、心あり。落人と郷民の、和やかな友誼、融和、とこしえに。

さかしま。認知の歪み。あわいに、何を隠す?脳が痺れる。酒を呷る。

『曼珠沙華は、絶えぬ合わせ鏡なのだ。』と虎彦が云う。

「おや、なんだ君、帰ったのか。一杯どうだ、良い酒だ。」

『未だ帰ってやしない。君が、勝手に見ているだけサ。』

知らぬ間に、酔いが来て居た。足音も無く這い寄って、そっと肩を抱く、私の、痩せた肩を。それは虎彦の顔と虎彦の声をして私を、私の脳神経を誑かす。引き出しの錠が緩み始める。其れは鳴る。過多、語リ。

虎彦は語る。
『三倍体、と云うのだそうだ。畢竟、彼を彼たらしめるにひと組で足る染色体を、貪婪にも三組揃えて身に宿すのだ。結果何が起こるか?彼は彼、足り過ぎるのさ。過剰な自己愛、横溢する自意識、水鏡に恋するナーキソス。睦言と涎とを口の端から雫らせて。産まずに増えよ、地に満ちよ。あっは。我鬼だよ、其れは。唯我の獣だ。曼珠沙華は、独りなのだ。群れて在っても、独りなのだ。それは凡てが原初であり、そして凡てが複製なのだ。個であり全。だからそれは笛吹く者も無しに同日同時に土を破り、茎を伸ばし、刹那違わず開花する。約束された満場一致。自己で世を満たす、自愛の自愛による自愛の為の全体主義。産むな、しかし増えよ、地に満ちよ!それは良い。本当ならば、其れでも良い。だが、』

引き出しの錠がカタと鳴る。過多過多、語リ、騙リ。

錠が鳴る。否、此れは始業の鐘だ。
いかん講義が始まって仕舞うでは無いか。
教壇に立つのは誰あらん、見知った顔の見知らぬ男。
『アレロパシィ的観点から申せば、曼珠沙華はゼノホービアでありります。
実らず、殖えて、地を満たし、自我を増殖して他を圧します。
曼珠沙華は、鎖国の徒であります。曼珠沙華は、山里の民でありります。
其れは他者を拒みまます。其れは排斥しままます。

散リ散リ、と。脳髄が焦げる匂いがする。

魚、心あれば、水、心あり。
デハ?ココロ、ナケレバ?

腐れ花弁に汚れた湯、汚れた湯の、濁った赤の、饐えた匂いの、
だが、さかしまだ。
私は知る。知っていた。

赤い泉。鉄の色と鉄の匂いの。溢れて。。。落人狩りだ。

□□□

錠が落ちる。またひとつ引き出しが開く。私は視る。その惨状を。

□□□

穴の淵に並んだ身体。幾つも幾つも。或る者は穿たれ、或る者は断たれ。身体。血濡れた身体たち。空いた穴から断たれた面から、血は止め処無く流れ続ける。家畜を屠る為に研がれた重く厚い刃が振られる。一肢落ちる。また一肢。続々。落ちた四肢は血は流れて穴の底に溜まる。鉄の匂う湯気。鮮血の泉。噎せる様な。四肢の無い体、揺れて、落ちる。業の貯水池。カルマ池?違う。

だるま池だ。

□□□

私はまだ、呑んでいる。私はもう、酔っている。
私は、一体、
判らない。問いたい問いが見つからない。
虎彦がまだ隣に在る。英国製の腕時計。捩ジ捩ジと、邪リ邪リと、ぜんまいを巻くその音が神経に障る神経に障る酔いが濁る曖昧になる。

「其れで?並んだ者には、女も、在ったかい?」と虎彦が訊く。
「・・・在ったさ。女も、在った。幼い子供も、また在ったさ。」
「非道い話だ。」と呟く虎彦の眼は爛々光を放ち、前歯の裏側を撫でるように、赤黒い舌先が、蠢く。

英国製の腕時計。捩ジ捩ジ。邪リ邪リ。神経に、障るのだ。

「もう、止したらどうだ。」「如何して?」
「不愉快だ。其れにそろそろ捩じ切れる。」「捩じ切れて、さて何が?」
「君が、死ぬ。」

虎彦が嗤う。
「死んだ俺が、見たくないか?」
「見たいものか。」
「嘘を、」
虎彦は嗤う。
「見たまえ。見なければならぬ。それは最早、君にしか視えぬのだ。」

捩ジ捩ジ。邪リ邪リ。ネジネジ、ジャリジャリ、ネジジャリジャリツ!

其れは到頭弾け飛ぶ。其れは弾けて飛んで竜頭も時針も吹き飛ばし、ぜんまいは伸びて唸って鎌首を擡げた大蛇の様に虎彦の身体に絡みつく。締め上げる。締め付ける。長い手脚が捥げ落ちる。四肢が落ちる。落とされる。

私の中で、何かが素頓と堕ちる。
壊れた錠前。脳味噌の、理性の、

開く。

童が虎彦を引いてゆく。
「 ソヤサイ引きましょ お馬の子
  ソヤサイ引きましょ 池の淵
  煮てサ、焼いてサ、喰ってサ。
  其れに木の葉を チョイと被せ 」
虎彦は引かれてゆく。引かれて笑う、大声で。
「此れは楽ちんだ、は、は、は。引け、童。引け引け。さても愉快な、ははは。は、は、」
虎彦は引かれて行く。四肢を断たれ身動ぎも出来ぬその細首に縄を掛けられ、ずるずると、虎彦の身体は引かれて行く。
「ヤアヤア、斯うして引かれて眺むれば、この世はすべて、さかしまだ!」
噴き出す血が顔を胸を赤く染める。引かれ、擦れ、寧泥と草の汁とが、棒の様な胴体を斑に塗り潰す。虎彦は引かれてゆく。その姿は、まるで、

見知らぬ行商人が云う。
「旦那様お人が悪い。立派なキジ馬を、既にお持ちでは無いですか。」

「さかしまだ!」
虎彦が叫ぶ。
「顔を良く見ろ。顔を良く見るのだ。刀を振るう、殺人者の其の顔を!俺を引いてゆく、童の顔を!」
訳と道理のそのさかしまが、脳を焼く。熱と光とが、秘された果汁を炙り出す。私は視る。私は知る。知っていた。

さかしまだ。落人が、村人を狩ったのだ。

□□□

「来掛けに不眠社へ寄ったら、軽井氏が裸でかっぽれを踊っていたよ。作家の苦労も知らんとノン気なものだ。出版社なんて、気楽な商売だね。」

久しぶりに会う虎彦は件の外套姿のままで部屋に上がり込み、どかりと畳へ尻を落とす。
「土産は米焼酎だ。まずは呑もう。」
まだ陽は高い。が、無論呑まぬ理由はない。

「外套くらい脱いだらどうだ。自慢の生地が傷むのじゃないか。」
「俺も外套も、少し草臥れてしまった。経年劣化は愛用品の勲章さ。其れに、」
「何だ。」
「君の部屋は、寒い。」
「酔えば気温は関係無いさ。」

湯呑をふたつ、其れから沸いた薬缶の置き場を捜していると「此処で良いよ。」と畳を指す。
「勘弁してくれ。」
「敷く物がないなら、」と取り出したのは『天地怪闢』の旧刊。流石に気が引ける。
「構うものか。小説なんてものを、大事後生に保管してどうする。擦り切れるまで読まれぬのなら、いっそ鍋敷きにでもするが良いのさ。」
「それで、原稿は仕上がったのか。」
「少し呑んだら帰って書くさ。何、大体の筋は君が見てくれた。そうだろう?」
「さあて。」

其れから私は話をする。お湯割りを呑み、時折手洗いに立ち、煙草を灰に変え乍ら、長い長い、話をする。時々虎彦が口を挟み、私は知ることを答える。

「成程。」と虎彦は云う。便利な言葉だ。同意でも無い承知でも無い、然し前向きに響く相槌。

私はもう話を終えて、静かにお湯割りを呑み続ける。呑み続けて、時が流れて、そっと虎彦が立ち上がる。
「ではこれで失礼するよ。急いで原稿を仕上げなければ、憐れな軽井氏が肺炎になって仕舞う。」
そう云って笑う。
私は虎彦を見る。虎彦の黒い外套を見る。それは誂えた様に、彼の身体に似合っている。
「ねえ君、其の外套は或いは本当に、死んだ君の、遺品なのでは無いか?」
虎彦は莞爾と笑う、柔らかく、深く。
「さて。解けぬ謎のひとつやふたつ、この世には屹度在るものさ。でなければ誰が、小説なぞを書くものか。」

虎彦は去る。昼の街へ。陽の当たる、表の世界へ。

虎彦は去る。では、私は?
眼窩の奥底、脳神経が痙攣する。私は問う。私は、私は、私はでは。
私は、私は、私は、「        か?」

吾輩は、問いである。吾輩は空虚な、空白の問いである。だから。

答は永劫に、もう無い。

/了

#ネムキリスペクトリスペクト

□□□
□□□
□□□
□□□
□□□
□□□
□□□
□□□
□□□

コノ、ショウセツヲ、ネムキハニ、ササグ。
アイシテルゼ。チュ。
            ウネリテンパ拝