その手を離すな。

チケットを探して鞄を掻き回している、そんな彼女の前髪がふわりと踊っているのは、この街が落ちているからだ。

この街は落ちている、最近ずっと。でもそんなの、もう慣れっこなんだよね。

だからぼくは平穏に暮らす。
落ちる街の上で眠り、目覚めて大学に行き、深夜のバーでグラスを磨き、日曜日には恋人とデートをする。ありふれてるだろ?

良く晴れた午後、手を繋いで二人で出かける。駅裏の文化ホール、内田百閒展を観に行く。
春、うらうら。人出は、まばら。
半券を受け取ってゲートをくぐると四畳半一間、そこに内田百閒が座っている。むっすりとした表情で、こちらを睨んでいる。
機嫌が悪そうなので、軽く眺めるだけにして部屋を出た。

「あれで二千円は、ちょっと高いね。」
「そう?でも私、割とカンドーしちゃったな。」
「霧野さん、大ファンだもんね。また来たい?」
「いや、一回見たらもう良いかな。はっはっは。」

そんな事を話す。自動販売機で飲み物を買って、公園のベンチで春を吸い込む。花、太陽、ソーダ・ポップ。

クレープ屋台へ駆け出した男の子が、漫画みたいに派手に転ぶ。父親が引き起こして、土埃を払う。
「ほーら、ひとりで走っちゃだめだろ。パパと一緒に行こう」
そう云って、しっかりと手を繋ぐ。ぼくたちはそれを見ている。

鳥打帽の老人が、ご婦人に手を引かれて通る。すれ違う人と声を交わす。
「良いお天気ですな」
「ええ、少し暑いくらいですね」
それから会釈して別れる。ぼくたちはそれを見ている。

「こんな風に、」と霧野さんが云う。「こんな風に、みんながいつも手を繋ぐようになったのって、街が落ち始めてから、だよね?」
「そうだね。そうかもしれないね。」

この街は落ちている。最近ずっと。ゆっくりと、そして時に、激しく。
ぼくたちはもう、慣れてしまった。
昔と違っているのは、降水量が減ったこと。ホイップクリームが泡立ちにくくなったこと。(どちらも、はっきりした理由はわかっていない。本当は因果関係なんてないのかもしれない。)それから、『出来る限り、大切な物から手を離さない。』そんな習慣がついたこと。

「なんか、良かったよねえ。」と霧野さんが笑う。
「良かったのかなぁ」
「良かったよお。これで良かったんだよ、世界はさあ。」と霧野さんが笑う。
それからぼくたちは手を繋ぐ。もう一度、しっかりと。

□□□

警報が鳴る。リューウイ。

□□□

リューウイ。リューウイ。。。

ぼくも霧野さんも公園のひとびとも、思わず空を見上げるような、同じ姿勢で首を傾げ、口を噤む。

リューウイ。リューウイ。留意。留意。

公園には保持紐帯が備えられている。だけど当然、使用は子供や高齢者が優先だ。春、うらうら。公園は、大盛況。
「文化センターまで戻る?」
「図書館の方が近いかも。でも、」と霧野さんは云う。「繋がってれば、大丈夫だよ。」
「そうかな?」
「そうだよ。大丈夫だよ。離さないよ。元バレー部主将・霧野の握力、なめんなよ?」
それからカラカラと笑う。

□□□

勿論、大丈夫だった。ジェットコースターみたいに唸り、捻じれ、落下する街で、ぼくたちは大丈夫だった。霧野さんの云う通りだった。ぼくたちは、大丈夫だった。

□□□

「やーでもちょっと緊張したね、手汗ベタベタだよごめんごめん、はっはっは。」と霧野さんは笑い、ジーンズの腿の辺りで掌をごしごしと拭い、「いや違うわ、こう云う時はハンカチだ、はっはっは。」とまた笑うのでぼくも笑う。
「ほっとしたら、おなか空いたね。」
「空いたねえ。」
「佐渡屋でカレーでも食べる?」
「良いねえ。でもさ、その前に、」と霧野さんが云う。
「その前に、ほら直島くん。あそこに、クレープ屋台が、あるじゃろ?」
「あるね。」
「あとは、云わんでもわかるな?」
「はい。」

と云う訳で。
春の日曜日、ぼくは恋人とイチゴのクレープを食べる。ありふれてるだろ?

ホイップ・クリームは昔より少し固くて、舌触りはイマイチだけど。
きっと、この味にだって。慣れてゆく。

/了