アートとデザイン(クリエイト)
最近、私の着想にあった、「アートとデザイン(クリエイト)」についての議論・そして、議論を見かけた。それについて書いていこうと思う。
「美の構造」について
「美の構造」といものがある。それは、普遍的で技術的で構造的なものだ。それを内在・自身の技術とさせるために、模倣・分析を行う。黄金率などがそうなのであろうし、よく言われる決まったパターンというのは、ここから継承されるものが多い。あるいは「美の構造」は「型」とも表現できるだろう。
多くの人に受け入れられるものは、継承された「美の構造」が存在するものであると考えている。また、「美」を受け継いでいるので美しい。
マーケティング
大衆は知らず知らずのうちに「美の構造」を求めている。ただ、それがすべてではないだろうとも考えている。流行やターゲットを考えると、「美の構造」から離れたものを多少必要とするのではないかと思う。「守・破・離」といわれるが、「美の構造」を「守」ばかりしていては商売にならないと考えている。
現在の需要に合わせることは「破・離」の内に入るのではないだろかと考える。
創る(作る)人の内面性
最終的に「離」になるので、ある時点から「型」を破って作る必要があると考える。模倣し、分析し、あるいは師事したものから離れないといけない。よく、「作家性」と言われるが、「型」から離れた「個性」がにじみ出たものが「作家性」なのだと考える。それは、今まで見てきたものであり、経験してきたものであり、思想である。内面性は「守・破・離」どの段階でも「作家性」として「にじみ出てしまう」と考えている。
ダダイズム以降の現代芸術は、個性や作家性無しでは語れないと考えている。「美の構造」・「型」よりも、「脱構築」的だからだ。もちろん、それらの芸術はそれ以前の芸術を理解した上で「脱構築」しなければいけないが。
内面の表現と商業性
クリエーターは、マーケティング要素やクライアントの指示などによって、「計算された作品」を作る必要がる。ただ、計算されたものに固執する必要があるのかどうかは私個人としては疑問である。経験し、感じ、思考した「表現された」作品はある程度必要なのではないかと思う。
内面のにじみでない、コモディティ化された作品の中、「表現されたもの」がないと、消費者は精神的に詰まってしまうのではないかと思う。
「表現したものを作る」ことが目的なのか、手段なのか。「計算して作る」ことが目的なのか、手段なのかというのは、ケースバイケースではないかと考えている。
人間は不完全だと思う。不完全であることでだめだというならば、何もできないだろうと考える。プロでも間違える。間違えるのが人間的であると考えている。私は芸術は人間的・属人的であると考えているので、それで構わないと考えている。
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