チャーリーとチョコレート工場 感想

話はチャーリーという少年がウォンカという天才とも変人ともいえるショコラティエの工場を訪れる話。金の招待券の入ったチョコレートを手に入れたものだけが入ることができる。原作があるらしいが、自分は未読である

現代社会への皮肉が多いコメディ作品であり、自分は工場ということで、チャップリンのモダンタイムスを彷彿とさせられてしまった。他の作品へのオマージュもあるだろうと思う。

工場ではウンパ・ルンパが働いており、全員同じ顔である。コモディティ化された世の中への皮肉だろうか。

五人の少年のうち主人公以外の四人が現代社会への皮肉である。脱落時にウンパ・ルンパが現れて、脱落する人物へのオマージュを表現しながら踊り・歌う。英語・日本語字幕みたので歌詞はあまり追えなかった。

見学者の一人がなんらかの賞を貰えるという。主人公以外の四人はトラブルによって脱落する。主人公以外は賞をほしいという欲が強い。

一人はオーガスタスという少年。毎日チョコレートを食べている太っている少年。たくさんチョコレートを買っていたので金の招待券を手に入れることができた。父は精肉業である。欲張りすぎてチョコレートの川へと落ちてしまい脱落。飽食化された現代への皮肉。

お菓子の庭園内で食べていたチョコレートを落として自分で踏み潰している。食料への粗末さが表現されていると感じた。

ボーレガードという少女は勝利や優勝にこだわり、味の変わるガムを世界初食べた少女となったが、ウォンカが吐き出したほうがいいといったのに無視して、ブルーベリー化してしまい脱落。競争社会と化した社会への皮肉。映画では母親しか出ておらず、シングルマザーという面も表現されている。

ベルーカという少女。社長の子女。父親にわがままを言ってなんでも手に入れようとしている。金の招待券は大量に父親がチョコレートを買い占めて、社員に見つけさせている。リスがほしいといって、父親にせがむが、ウォンカが売りものではないといってもなお欲しく、リスを捕まえに行って、逆にリスに捕まえられて脱落。金権・欲望的な象徴としての皮肉。

マイクという少年は、頭が切れるギークといったところだろうか。親も地理の教師であるという。金の招待券を統計的解析で一つのチョコレートだけで手に入れた。金の招待券のインタビューの時にゲームを「死ね!死ね!」といいながらしていた。チョコレートをテレポートさせたのをみて、なぜ人間で行わないかといったが、ウォンカが「そんなアレなことを・・」と嫌がったが、自分が実験台になって失敗し脱落。知識偏重・科学至上主義と倫理観のなさへの皮肉。

主人公・チャーリーは最後まで残る。工場を譲り渡すのが賞だと言われるが、その条件は家族と別れることだという。チャーリーは家族への愛から、それを拒否した

夢を実現するためには何かを捨てなければいけないという、よくある物語的なメタファー。

ウォンカ自体も少年時代、歯の矯正をされており、そのことでお菓子を食べることを禁止されていて、厳しい教育を受けたアダルトチルドレンとして表現されている。

ウォンカの父が歯医者なのも、この作品はアメリカ映画なので、アメリカ社会では歯が綺麗でないと正しく教育されていないと見られるところと、お菓子への愛情への葛藤を表現しているのだろうと思う。お菓子への愛情と他人への関わりの結果、偏屈になってしまった奇才という存在。

なお、ウォンカ役はジョニー・デップが行っている。彼は、こういう奇才的な人を演じるのが得意だと感じるね

賞をチャーリーに拒否されてしまってからスランプだったウォンカだが、

チャーリーが靴磨きの仕事をしているときにウォンカを再開し、話の流れから、チャーリーとともにウォンカの父のところへウォンカと共に訪れ、ウォンカとその父は和解する。

そこで、家族への愛を取り戻したウォンカは、チャーリーとチャーリーの家族とともに暮らし、チャーリーとともに工場を運営してき、うまくいくようになる。

最後にハッピーエンドで終わるのがなんとも救われる。まぁ、そうしなければ、あまり商業的に成功しないというところもあるだろうが。



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