デジタルネイティブ世代の無縁社会化と承認欲求

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人間が何かをし、成功したり失敗したりするためには他人に「承認」される必要がある。通常親がそれを担っているが、ネット時代における危うさがある。

働く企業においても、「コミュニケーション能力」なる玉虫色の言葉を求めらるし、また、企業においても日本的雇用という、家族的経営やそういったものが崩壊しており、うまく研修させることによって洗脳した社畜を使い潰すブラック企業が跋扈している。そのような状態では、働くことにおいて承認欲求を満たすことが出来ない人が出てくるであろう。

いわゆるコミュ障といわれるコミュニケーションが得意ではない人は友人知人という承認欲求を失い、地域共同体の喪失しつつあり、所属による承認欲求は得られなくなってきているといえる。

何によって承認欲求を満たそうとしているのだろうか?

それは、インターネットのコミュニティあるいはイデオロギーに所属意識をみだしているのではないだろうか。

インターネットコミュニティだと、はてな村、にちゃんねる、知恵袋、アメーバ、ニコニコ、ブログ、各種掲示板等々

そこでは、匿名の誰かとして生きることができる。にちゃんねるであれば、そもそも名前の無い誰かであるし、はてな匿名ダイアリーにおいても同じである。id等がつくコミュニティでは少し個性性が生まれるともいえるが。

コミュニケーション不満によってによって、承認欲求の貧弱さと自信のなさを埋めるために自己を肥大化させ超越的になった自我が生まれる。それは、あくまで自己防衛であり、解消されるべきものである。こういった存在を「脱社会的存在」という。

脱社会的存在になった人たちは、自我が肥大的になり、何を言うのも自分が正しいようになる。そして、無意識に一定数はイデオロギーにたいして、所属意識を持つようになるのではないかと考えた。

それが、ネトウヨであり、サヨクであり、各種九条論者、人種差別者などを生み出していった。基本的に彼らは無意識に超越的であると考えているので、イデオロギーを越境したコミュニケーションにおいて、ディスコミュニケーションを行ってしまい、永遠と終わりのない議論をしている。そのような風景はネット上ではよく見かける。

「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開2(篠田博之) - 個人 - Yahoo!ニュース

黒子のバスケ事件犯人はこう述べている。

「こんなに明るくて、カッコ良くて、ノリの良い友人が子供の頃にいたら、自分の人生も違っていたろうな」などと感じました。

友人や家族といった存在に承認してもらえれば、「無敵の人」はそんなには増えていかないのではないか。と、そういう思いもある。

ただ、一人になった人が友人を求めているかというと、すべてがそういうわけでもなく、一人でいることを好んでいる人もいる。日本社会の「同調圧力」を嫌った人たちだ。

問題は根深く難しい。これからも考えていこうと思う。



参考サイト

脱社会的存在 : 社会学玄論

承認欲求そのものを叩いている人は「残念」 - シロクマの屑籠


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