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黄色い戦闘機

競走馬には「脚質」というものがあります。

「レースでどのような走り方を得意としているか」の事で、大まかに5つに分類することができます。

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「逃げ」 スタートから先頭に立ってレース運びをします。気性が荒く抑えが効かない馬や、逆に気が弱くて馬群を怖がる馬などに適していますが、スタート直後に先頭に立てる瞬発力や、逃げ粘るためのスタミナが必要とされます。

「先行」 2〜5番手くらいの先頭集団でレースを進めます。先頭を射程圏内に捉える事ができ馬群に包まれる心配も少ないのでこの位置はしばしば「好位」と呼ばれます。理想的なレース運びができる優等生的な馬が多いですが、ハイペースに巻き込まれて前倒れになってしまう事もあります。

「差し」 先頭集団の後方、中団でレースを進めます。馬群に包まれても動じないタフさを持ち、騎手との折り合いのつく冷静な馬に適しています。前を馬群に囲まれるリスクもあるため、先行馬達を外から追い抜かないと行けない事も多く、距離のロスをものともしない実力が要求されます。

「追い込み」 道中は後方に位置します。気性が荒く、他馬と並ぶと興奮して飛ばしてしまうので、他馬を前に置いて壁を作っておかないといけない馬、スタート直後のダッシュがつかない馬、馬込みを怖がってしまう馬などに適しています。直線で他馬をごぼう抜きにするだけの瞬発力が必要となります。

「自在」 どのような走り方をしても適応でき、結果を出す事のできる馬の脚質です。

競馬は「前が有利」とよく言われます。実際、全レースの脚質別の勝率を見てみると、「逃げ」と「先行」が60%を占めています。

しかしこれが、賞金が高く実力馬が揃う「重賞」になると、最も高い勝率の脚質は「差し」になります。

実際、「差し」の脚質の馬には、ナリタブライアン・オルフェーブル・ディープインパクトなどの三冠馬をはじめ、数多くの名馬が名を連ねています。

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「マヤノトップガン 」は先行馬でした。

デビューから初勝利まで4戦もかかり、善戦続きで勝ちきれないレースが続いたものの、3歳秋の最後のクラシックレース「菊花賞(G1)」を勝利し表舞台に躍り出た遅咲きの馬です。

道中は先頭集団にいて、直線手前4コーナーで先頭に立って押し切る競馬はまさに王道の勝利でした。

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続く有馬記念(G1)ではスタートから先頭に立ち、古馬(4歳以上)を相手に鮮やかに逃げ切り勝ちを収めました。

G1などの大レースを勝った時、ゴール直後に騎手が感極まってガッツポーズをする事がよくあります。

しかし菊花賞や有馬記念の時にマヤノトップガンの鞍上、田原成貴騎手が見せた仕草は「胸の前で十字を切って投げキッス」でした。

これは世界のトップジョッキー「ランフランコ・デットーリ」を真似たものですが、この「俺が勝たせた」とでも言わんばかりのクールなパフォーマンスは話題を呼び、1995年の年度代表馬にこそなれたものの、馬よりも騎手に注目がいってしまいます。

田原成貴は「騎手はアーティストだ。競馬は自分の作品にしないといけない」と語っていたと言われています。

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田原はそのセンス溢れる騎乗技術と端正な容姿から「競馬界の玉三郎」と言われていました。

1978年にデビューすると「天才騎手」として注目を集め、毎年のようにリーディングジョッキー争いを繰り広げていました。

しかし1980年代に度重なる落馬事故に見舞われ、腎臓摘出、骨盤骨折など身体に重大なダメージを負ってしまい、引退するまで騎乗数の制限を余儀なくされてしまいます。

気が付けば、1987年にデビューした天才「武豊」が競馬界の全ての注目をかっさらっていました。

かつて自分を照らしていたスポットライトが見向きもしなくなった中、それでも自分の騎乗には「華」があるのだと誇示した結果が、あの異例のパフォーマンスだったのかも知れません。

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1996年3月、マヤノトップガン は天皇賞(春)の前哨戦、阪神大賞典(G2)に出走します。

マヤノトップガンはこのレースで主役の座から「脇役」に引き摺り下ろされてしまう事になります。

このレースに出走していた「ナリタブライアン」は、マヤノトップガン の一年先輩で、ド派手な勝ちっぷりから「最強の三冠馬」と呼ばれていました。

しかし怪我から復帰した後は凡走を繰り返し、ファンは復活を待ち望んでいました。

3000mの長丁場の阪神大賞典、このレースはマヤノトップガン とナリタブライアンのマッチレースになります。

いつも通り先行し、第3コーナーを過ぎたあたりで先頭に立ったマヤノトップガンを追うようにナリタブライアンも上がっていき、二頭はピッタリ馬体を合わせました。

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そしてそのまま他の馬を置き去りにし、画面に映らないほど引き離し、抜きつ抜かれつの二頭だけのデッドヒートを繰り広げた末、ナリタブライアンが頭の差だけリードしてゴールしたのです。

三冠馬の劇的な復活に観客は沸き立ち、このレースは「日本競馬史上に残る名レース」と言われました。

田原はこのレースをきっかけに引退を決意します。

名勝負とは言え、所詮は前哨戦のG2レース、数々の記録を塗り替えてきた優等生の武豊が、馬の負担も考えずにあんなデッドヒートに乗ってくるとは思っていなかったのです。

常識はずれな勝負を挑んできて名レースを演じた天才騎手を前に、田原は「役者としても負けた」と思ったそうです。

「こんな奴がいたら俺の存在がかき消されてしまう」と感じた田原は引退を決意、現役はマヤノトップガン が引退するまで続行する事にしました。

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春の大一番、天皇賞(春)、マヤノトップガン とナリタブライアンは前哨戦での激闘が尾を引いたのか、二頭とも負けてしまいます。

ナリタブライアンは2着、マヤノトップガン は5着でした。

勝ったのは伏兵サクラローレル 、華やかな道を突き進んで脚光を浴びてきたナリタブライアンとは対照的に、実力がありながらも遅咲きの体質と怪我に泣かされて裏道を歩かざるを得なかった馬です。

サクラローレル は一年前の天皇賞を目前にして調教中に両前脚を骨折、競争能力を喪失し命さえ危ぶまれましたが、関係者の執念により生きながらえて現役を続行、ついに1996年の天皇賞でその実力が花開いたのです。

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前年の年度代表馬でありながら二連敗を喫したマヤノトップガン は、次の目標を春のG1を締めくくる「宝塚記念」に定めます。

とはいっても、天皇賞を制したサクラローレル は早々と休養に入り、ナリタブライアンは不治の病「屈腱炎」を発症して引退。

集まったメンバーの顔ぶれは、お世辞にも「一級線」とは呼べないものになりました。

強敵のいない中、マヤノトップガン は先行して危なげなく宝塚記念を勝利、3つ目のG1タイトルを手にします。

田原の頭の中にはこの時「このレース、強いメンバーがいたら負けていた」という考えが頭をよぎっていました。

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マヤノトップガン は秋の初戦に「オールカマー(G2)」に出走しました。

ここでサクラローレル と2度目の対決となりましたが、優勝したサクラローレル とは対照的に、マヤノトップガン は4着に完敗してしまいます。

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続く秋の大一番「天皇賞・秋(G1)」では、サクラローレル以外にも新たな強敵が立ちはだかりました。

「マーベラスサンデー」です。

マーベラスサンデーはマヤノトップガンの同期で、類稀なる才能に大きな期待を寄せられ、あの武豊も惚れ込んでいた馬でしたが、3度の骨折により出世が遅れていましたが、1996年に入るとその実力を遺憾無く発揮し、6連勝という破竹の勢いで天皇賞・秋にまで駒を進めてきたのです。

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3強対決と話題になった天皇賞でしたが、蓋を開けてみると勝ったのはバブルガムフェロー。マヤノトップガンよりも一世代若い馬でした。

年内の連戦の疲れが響いた上にG1初挑戦だったマーベラスサンデーは4着、直線で前が壁になるふりを受け3着となったサクラローレル 。

「負けて強し」の印象を与えた二頭に比べ、いつも通りの競馬をしてバブルガムフェローを捉えきれなかったマヤノトップガンは評価を落としました。

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三頭は再び年末の大部隊「有馬記念(G1)」で相まみえます。

マヤノトップガン はスタート直後から2番手で追走、いつものように先行します。

4コーナーではスパートして追いついてきたサクラローレル とマーベラスサンデーに並ばれ3頭が横一線に並びますが、マヤノトップガン の走りにはまだ余裕がありました。

しかしなぜかここからマヤノトップガン はずるずると後退していきます。

一度は先頭にたったマーベラスサンデーをサクラローレル が交わして先頭に立ち、二馬身半突き放して優勝しました。

マヤノトップガン は7着、惨敗でした。

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「サクラローレル が一番強い、マヤノトップガン はもう終わった馬だ」

このような認識が競馬ファンの間に浸透していきました。

実は田原は宝塚記念の時から、マヤノトップガン の異変に気付いていました。

マヤノトップガンに走る気が感じられず、先行したがらなくなっていたのです。

「宝塚記念は相手が弱かったから勝てた、でもこのままではサクラローレル やマーベラスサンデーには勝てない」という確信が田原にありました。

しかし何事も「結果を残したやりかた」を変えるのは大変な事です。今まで通りに走って負けても誰にも文句は言われませんが、走り方を変えて負けてしまったら責任を負わねばなりません。

3つもG1を勝っていながら「田原騎手の技術で勝った」「相手が弱かったから勝った」「フロックだ」などと評価されるマヤノトップガン にどうしても勝たせてあげたいと田原は強く思い、眠れない日もあった程悩んだそうです。

年が明けて1997年、マヤノトップガンのレースは昨年と同じ「阪神大賞典」からスタートします。

今年はデッドヒートを繰り広げたライバル、ナリタブライアンの姿はありません。

スタート直後、マヤノトップガン はなんとポツンと最後方に位置どりました。

どのようなレースをするのか、田原はマヤノトップガンに任せたのです。

観客はどよめき、「田原なにやってるんだ!」と怒号が飛び交いました。

マヤノトップガン はこれまでにない位置どりで鞍上の田原とぴったりと折り合っています。

そして3コーナーにさしかかると一気に全馬をごぼう抜きし、ムチを打つこともなく3馬身半の差をつけて圧勝しました。

マヤノトップガンが「先行」という脚質を脱ぎ捨て、追い込み馬になった瞬間でした。

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新しい走りを手に入れたマヤノトップガン は再びライバルに挑みます。

前哨戦の大阪杯(G2)を楽勝して有馬記念の雪辱に萌えるマーベラスサンデー。

そしてサクラローレル は秋に海外遠征のプランが立てられていました。

サクラローレル に勝つためのチャンスは次の天皇賞・春が最後になります。

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1997年天皇賞・春、1番人気の主役はサクラローレル、マヤノトップガン は2番人気、マーベラスサンデー が3番人気でした。

レースはスローペースの淡々とした流れになります。

マーベラスサンデー はサクラローレル をぴったりとマークするように真後ろに位置付け、その二頭を見るようにマヤノトップガン はインコースの後方でレースを進めました。

残り1000mを切った地点でレースが動きます。サクラローレル がアウトコースからスーッと前に上がっていったのです。

それを追うようにマーベラスサンデー も付いていくと、遅れまいと各馬ペースを上げ始めてレースは激流になりました。

その中でただ一頭、流れにのらずにじっとマヤノトップガンは脚を溜めました。

先頭争いをしているサクラローレル とマーベラスサンデー に置き去りにされるかのように、マヤノトップガンは12番手にまで下がってしまいました。

4コーナーを回って直線に入ると、マーベラスサンデー とサクラローレルのデッドヒートが始まります。

一度抜かれたらそのまま引き離された有馬記念の時とは違い、マーベラスサンデー は先頭に立ったサクラローレル を意地で抜き返しました。

カメラもこの二頭にクローズアップし、観客も先頭争いを繰り広げる二頭に釘付けになっていた頃、マヤノトップガン はインコースからアウトコースへ持ち出します。

馬込みの中で我慢していたマヤノトップガン の視界が開け、前には何も邪魔するものがなくなりました。田原はマヤノトップガン にムチを一発入れました。

追いすがるマーベラスサンデー を振り切ったサクラローレルには、外からあっという間に飛んできたマヤノトップガンを抜き返す余力はありませんでした。

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「マヤノトップガン 」という名前の通り、前を行く二頭をまさに「撃墜」したその走りこそが、彼の本当の走りだったのかもしれません。

「逃げ」「先行」「追い込み」全ての脚質でG1を勝利したマヤノトップガンは「自在」の脚質だと言われていますが、決して器用な馬だったわけではなさそうです。田原が馬を信じ、マヤノトップガンの声に耳を傾けた結果だと思います。

ゴール直後、田原に派手なガッツポーズは必要ありませんでした。

「よくやったなぁ」と言わんばかりに、親が子を褒めるように、たてがみをクシャクシャと優しく撫でてあげるのでした。

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