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負け犬の遠吠えアーカイブ 支那事変

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勉強に行き詰まったら読んでみてください。
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記事一覧

負け犬の遠吠え 支那事変15 ニイタカヤマノボレ

南部仏印進駐によって日本とアメリカの関係は決定的に悪化し、アメリカは在米日本資産の凍結と…

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3年前
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負け犬の遠吠え 支那事変14 大東亜の名の下に

明治維新以降の近代史において、日本が最も警戒していたのは一貫して「ロシアの南下政策」でし…

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3年前
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負け犬の遠吠え 支那事変13 日本包囲網

1937年から始まった支那事変ですが、日本軍は損害を出しつつも連戦連勝の快進撃を続けまし…

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3年前
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負け犬の遠吠え 支那事変12 第二次ノモンハン事件「夏が来れば思い出す」

1939年6月18日、第一次ノモンハン事件が沈静化して二週間ほどがたった頃、再びソ連軍の…

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3年前
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負け犬の遠吠え 支那事変11 第一次ノモンハン事件「太陽の先生」

突然ですが、「モンゴル」の話をします。 1911年に起きた辛亥革命によって、モンゴル北部…

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負け犬の遠吠え 支那事変10 泥沼

オーストラリア人ジャーナリストで、孫文や蒋介石の顧問として活躍した「ウィリアム・ヘンリー…

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3年前
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負け犬の遠吠え 支那事変9 南京への道

前回、「第二次上海事変」が勃発したことによって、日本と国民党の衝突が北支だけでなく上海にまで広がり、全面戦争の様相を呈して「支那事変」へと突入した事までを書きました。 8月13日から始まった国民革命軍(国民党の正規軍)の攻撃に対し、日本政府は8月15日、遂に不拡大方針を撤回し、「支那軍膺懲、南京政府の反省を促す」という声明を発表しました。 この声明によって「上海派遣軍」が結成され、「松井石根(まつい いわね)」大将が指揮を執ることになります。 奇しくも「8月15日」は、

負け犬の遠吠え 支那事変8 盧溝橋の銃弾

1933年、満州事変の停戦協定である「塘沽停戦協定」が日本と国民党の間で交わされた事によ…

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3年前
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負け犬の遠吠え 支那事変7 紙幣戦争

清の時代から伝統的に支那で流通していた貨幣は「銀貨」が一般的でした。 そして中華民国の時…

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負け犬の遠吠え 支那事変6 上海の女狐

「宋美齢(そう びれい)」は清朝時代の1898年に、上海で誕生しました。 上海を拠点に展…

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負け犬の遠吠え 支那事変5 文民統制、なぜできぬ

明治時代、日本政府の要職は、薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩など「薩長土肥」による「藩閥」…

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負け犬の遠吠え 支那事変4 日本経済近代史

古代より「金」は、 ・光沢のある美しさ ・精錬する必要がなく、単体で使える便利さ ・腐食し…

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負け犬の遠吠え 支那事変3 政治家は命がけ

明治憲法第11条には、「天皇は陸海軍を統帥す」 そして第12条には「天皇は陸海軍の編成及…

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3年前
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負け犬の遠吠え 支那事変2 「独裁者」のつくりかた

第一次世界大戦で敗北したドイツは、「アルザス」「ロレーヌ」の2州をフランスから取り返され、「ポーランド回廊」をポーランドに割譲され、ダンチヒ市は国際管理下に置かれ、さらに全ての植民地を失いました。 そしてライン川の東側50kmの地域「ラインラント」は非武装地帯に設定され、ルール工業地帯も失いました。 この様な第一次世界大戦の戦後処理を国際的に取り決めた秩序を「ヴェルサイユ体制」と呼び、敗戦国であるドイツを圧迫しました。 空前のインフレを起こして低迷するドイツを救うべく首