感想文『魔法少女まどか☆マギカ』

2011年放送のテレビアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』および、2013年公開『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』を観ての感想です。長い。

(※『まどマギ』のアニメ作品としては、テレビシリーズ12話と、それを再編集した劇場版『[前編]はじまりの物語』『[後編]永遠の物語』と、完全新作となる『[新編]叛逆の物語』がある。『はじまりの物語』『永遠の物語』は基本的にテレビシリーズと同じ内容なので、ここではテレビシリーズと『叛逆の物語』をベースとして書くことにする。)


◼️はじめに

去年の今頃からアニメを観るようになったニワカが『まどマギ』のテレビシリーズに辿り着いたのは、昨年の10月。

特に誰かにオススメされたわけではなかったのだけど(強いて言えばネトフリにオススメされた)、ツイッターでたまに引用する人がいたりするので、ガンダムやエヴァに並ぶ教養なんだろうかと思って。『まどマギ』のタイトルを聞いたことくらいはあったけど、内容については一切知らなかった。「こんなおっさんが魔法少女ものはちょっと…」と避けていた、というか自分とは関係ないものだと思っていたし、観はじめるのに少なからず躊躇もあった。しかしだからこそ本当にまっさらな状態で観ることができたのは、いま思えばとても幸運だった。

テレビシリーズを観終わって、とても良かった、自分にとって大切な作品になったという感動があった。音楽も、映像も、キャラクターも、物語も、すべてが突出した名作だ。劇場版があることを知って、是非観たいとは思いつつ『叛逆の物語』は配信が無く、円盤買ってまで…というところで止まっていた。名作と賞賛しながらそこまでモチベーションが上がらなかった理由は、テレビシリーズで世界観は概ね閉じており、その結末について自分なりに納得してもいたからだ。

ところが昨年末頃に『叛逆の物語』のレンタル配信開始というニュースが。テレビシリーズ観てから少し間を置いたことで、自分の中でも消化が進み次のステップを欲していたところだ。まるで僕のために誂えたかのようなタイミング(実際には外伝である『マギア・レコード』のテレビアニメ放送に合わせてだろうか)。レンタルで990円はちょっと引いたけど、結論からすればそれは全く高くなかった。

『叛逆の物語』は、テレビシリーズで描かれたその世界に裏側から光を当てることで、裏と表、すなわち世界全体を見ることができる構成だ。

と、僕は途中まで思ってたんだけど、その視点は映画の終盤にぐるっと90°回転する。そして気付く。テレビシリーズで構築され閉じているように見えたのは、世界のひとつの側面を投影した影の輪郭でしかなかった。直交する2つの軸からの投影により、世界は立体的に浮かび上がる。 僕はこの瞬間、ぶわっと世界が広がる感覚に襲われ、興奮を抑えられなかった。「この世界はここまでやっていいのか、それならもっと深く考えられるじゃないか!」と。世界が立体ならば、2つの視点だけでは見えない場所がまだ存在するはずだ。掘り進めることだってできる。そこは観る側による考察の対象になり、また解釈の余地が生まれる。早い話が、沼である。テレビシリーズだけでも好きな作品ではあったけど、『叛逆の物語』を併せて観てこの世界の見方が大きく変わり、はじめてその存在に気づいた沼。気づいた時には既に僕はその沼にどハマりしていた。

まどマギはそういう作品なので、プロアマ問わず「評論」や「考察」が盛んだ。ネットの感想だけでなく、表現手法、アニメ史、社会、哲学などの背景から分析を試みる書籍も多い。かなり強い興味があるのでしばらく読み漁ってみようとは思ってるが、その前に、この投稿ではあくまでも僕がテレビシリーズと『叛逆の物語』を観ただけの、率直な感想を書き留めておきたい。

頭まで沼に沈む前の、遺言として。


ということで以下、大いにネタバレします。


■音楽、映像、演出

テレビシリーズを観はじめた瞬間は、この絵柄と雰囲気に果たして耐えられるのか…というのが正直なところだった。それでも意外と前に進めたのは、音楽と映像の力によるところが大きい。音楽と映像の推進力だけで3話に辿り着いたと言っていい。後述するように3話まで観ればあとは成り行きである。

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この作品は音楽が「重い」。つまりアニメの雰囲気に占める音楽の割合が高いと感じる。音楽自体の良し悪しとは別のところで、アニメを観ていて音楽がどのくらい聞こえてくるかは作品によってかなり異なる。僕がこれまで観たアニメでは、『宇宙よりも遠い場所』が完全に「音楽が重いアニメ」で、一方で例えば『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』なんかは素敵な曲は多いけど音楽は「軽め」だ。もちろん個人的な印象でしかない。理由は自分ではよくわかってなくて、もしかしたら本当に音量が大きめに収録されているのかもしれない。

僕はアニメを観るときどうしても音楽に耳を傾けてしまうので、こういう「音楽が重い」作品はそれだけで魅かれるものがある。そしてサントラが大好物だ。この曲はここで使われてる~みたいなことを思いながら聴くこともあれば、サウンドに身をゆだねて世界観に浸ることもある。いまもテレビシリーズのサントラ『魔法少女まどか☆マギカ Music Collection』買ってヘビロテ中。『叛逆の物語』のサントラも欲しいのだけど、ブルーレイの特典としてしか出ておらず、お値段に慄いてるところ。

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映像のこととなると僕はまったく知識が無いので評論のようなことは何も言えないが、とにかく『まどマギ』の映像表現には強烈に目を奪われた。特に魔女の結界の、劇団イヌカレーにより造られる表現。たいていは何らかのモチーフの繰り返しで構成されているが、アナログな切り絵だったりメルヘンな絵だったりと、その素材や技法を変えることで魔女の性質・性格が描かれる。俗にイヌカレー空間と呼ばれる、悪夢のような閉鎖空間。それが、人工的で硬質・緻密な背景と幼稚にすら見えるゆるふわデザインのキャラクターの世界から、突如として湧いてくる。そこに筆舌に尽くしがたい不気味さが生まれる。

ちょっと僕はこういうアニメーション初体験だったので、面白くて仕方なかった。魔女という存在の異常さについて、映像だけでじゅうぶんに説明されている。というか実際、魔女が生まれるプロセスについて説明があっても、魔女が一体どういうものかについての直接的な説明は特にない。僕からすると、この結界の表現の異常性がすなわち魔女そのもの、という理解だ。

そういえば、テレビシリーズの最後にでてくる「魔獣」は、すごくつまらない、嫌悪感だけを突いてくるようなビジュアルをしているし、個体差もない。この対比もまた、魔女とは何か、魔獣とは何かの答えそのものに思える。

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『まどマギ』の人気の理由は「観る人がその世界観に魅了され…」みたいに言われることが多い。世界観については後述するが、しかし、その提示だけで名作が生まれるほど事は簡単ではない。魅了されるのにもたぶん理由はあって、『まどマギ』では観客の感情を強めにコントロールしていることが大きいと思う。

つまり、演出だ。

その最たるものが『叛逆の物語』の冒頭30分。テレビシリーズ未見ならほのぼのした場面が続くに過ぎないのだが、実際にはテレビシリーズの内容と断絶があり(設定がいろいろおかしい)、観客は置いてけぼりを食ってモヤモヤしたまま物語が進む。30分ほど経ったところで「わたしたちの戦いって、これで良いんだっけ?」というほむらの違和感として、観客のモヤモヤはようやく回収され、同時にほむらへの共感を誘導する。

いや、もっと「異常」なことがある。魔女の「ベベ」の存在だ。しかも、よりによってマミさんの肩に乗ってしれっと登場!マミさんを食い殺した張本人とマミさんが仲良くしてる!もう悪い予感しかない。テレビシリーズ視聴者のトラウマを抉る演出。そうして前半はずっとザワザワした気持ちを抱きながら、悪夢のような時間を過ごすことになる。『叛逆の物語』はベベがいないと成立しないわけではないが、あのザワザワを生み出すには完璧な役者だったし、この作品にとって絶対に欠かせないザワザワでもあった。そしてそれもやはり、ほむらによって回収される。

映画の前半は、基本的にほむらの感情に沿うように観客をコントロールする、あるいは観客の感情の少し後をほむらが追いかけてくるように演出されていると言える。「私の感情が追いかけてくる…」との関連…は、深読みしすぎか。

また別方面の演出として、『叛逆の物語』でのマミさんの扱いにも注目したい。ほむらとの一騎打ちシーンや、終盤のティロフィナーレの凄まじい破壊力(街ひとつ消し飛ぶくらい)など、テレビシリーズでいまいち活躍できなかったマミさんを存分に出したいという思いが伝わってきた。みんな大好きマミさんである。(ただ、あからさまなサービスカットはいらなかったかなぁ。市場的にはそういう役回りなのかもしれないけど、マミさん中3だし…。『永遠の物語』ではまどかとほむらのお別れシーンで服を着てる(テレビシリーズのイデア的裸から変更されてる)という配慮が入ったことを考えると、やはり釈然としない。いや、日本のアニメの問題点みたいなことをここで書くつもりはない。それはそうと)ほむらvsマミさんの激アツ戦闘シーンは、そのアクションの美しさもさることながら、直前のほむらの独白がやはり観客の感情を揺さぶり、映像に彩りを添える。
「巴マミ、わたしはあの人が苦手だった。強がって無理しすぎて、そのくせ誰よりも繊細な心の持ち主で、あの人の前で真実を暴くのはいつだって残酷すぎて辛かった。」(ここで観客は思い起こす「みんな死ぬしかないじゃない!」)
同じ時間を繰り返してきたほむらの、マミさんへの完璧な理解。テレビシリーズでは対立し続けていたが結局戦うには至らなかったほむらとマミさんが、ついに激突するシーンでこの演出。もっと言えば、その前にマミさんの部屋でお茶してるときの「もしかしたら今がいちばん幸せかも」というマミさんの発言、そして後でわかることだが、その幸福な世界を作ったのはほむらであるということを思うと、この2人の戦いは涙無しには観られない、というのは半分嘘で、はっきりいってアクションが凄まじすぎて瞬きする間もない。しかし、停止した時間の中での2人だけの激しくも爽快な撃ち合いと、美しい軌跡を描き空中に止まった無数の弾丸が一斉に動きだすことによってもたらされるカタルシスが、涙を流す替わりにこのフラストレーションを昇華してくれる。


■世界、人、少女

さて、そういう各要素の良さもありつつ、『まどマギ』がこれほどまでに人を惹きつけるのは、なんと言ってもその世界観ゆえである。

僕自身は例に漏れず、3話のマミさんの死に衝撃を受け、ずるずるとその世界に取り込まれていった。ここで、強キャラの女の子が3話であっけなく死ぬという展開の「魔法少女もの」としての意外性、というメタ視点は問題ではない。物語の中のこととして、マミさんの死が「魔法少女となったからには致し方ない」という感じで処理されるところに、強烈なホラーを感じる。その恐怖はまどかとさやかの感情に沿う形ではあるが、彼女たち(とそれに共感する僕)の恐怖を描きながらそれは一切無視されたまま理不尽に進む物語。僕は傍観者でありながら、まどか達と共に運命に飲み込まれていく。先に述べたように僕の感情はコントロールされている。もうね、怖くて仕方ない。その後、まあ色々あってさやかが魔法少女になって願いを叶え、幸せを感じ、しかし絶望し、呪いをつのらせ、魔女になり果て、杏子と共に死んでいく一連の流れなんか、もう、ほんとうにつらい。見るのがしんどかった。しかしそれでも、この世界から目を離してはいけない。救いを願い、結末を見届けなければ。

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『まどマギ』は、世界のあり方と個の存在についての物語である。世界のシステムに抗いながら翻弄される個と、個の結びつきの大きな力により書き換えられる世界。個を捨てて世界となる少女と、世界を壊して個を守る少女。

ここで、『まどマギ』で描かれる「世界」(あるいは「宇宙」)について整理しておく。テレビシリーズと『叛逆の物語』を観てからまどマギの世界について語るには、「どの世界を指すのか」をクリアに分けておかないと、理解が追いつかない。実際、リアルタイムの放送でまどマギを観て今となっては記憶があやふやな知人と話しても、会話が成立しなかった。とりあえずもう一回観なおしてこいとは言っておいた。

世界は一連の物語を通して2回書き換えられるので、都合3つの世界が登場する。【はじまりの世界】【救済後の世界】【叛逆後の世界】である。

テレビシリーズは【はじまりの世界】つまり魔法少女が魔女と戦う世界で進み、13話でまどかの願いによって【救済後の世界】に書き換えられる。その後、魔法少女は世界の呪いを滅却するため魔獣と戦うことを運命づけられるが、この世界では絶望の後も魔女化せず、世界から消滅する形で「円環の理」に導かれ救済される。

なお、【はじまりの世界】はほむらの繰り返しによりいくつもの時間軸が存在する。厳密に記述するにはそれらを分ける必要があるが、とりあえず、ほむらがまどかと出会い、まどかを救うために魔法少女になる【はじまりの世界(α)】と、最終的にまどかが魔法少女を救済する【はじまりの世界(ω)】を把握しておけば良いだろう。テレビシリーズで描かれるのは基本的に【はじまりの世界(ω)】である。

『叛逆の物語』はテレビシリーズの続きとしての物語なので、舞台は【救済後の世界】である。ただし、ほとんどは狭い意味での世界と言える【ほむらの結界】の中で物語が進む。そして最後に、今度はほむらによって世界は書き換えられ、【叛逆後の世界】となる。この世界についてあまり多くは語られない。円環の理は残存し魔法少女による魔獣退治は続くようだが、宇宙の秩序に抗う悪魔であるほむらが、この世界でどのような力を持っているのかは不明だ。ほぼ万能なのだろうか。しかし円環の理からもぎ取ったまどかを完全にコントロールできているわけではなさそうなので、まどかとほむらは拮抗している状態なのかもしれない。

以上が、世界の遍歴である。ネットのどこかで「まどマギは5人の少女たちの物語であり、魔法少女システムはその舞台装置にすぎない」みたいなことを書いているのを見たが、僕はそれは完全に逆だと思っている。舞台装置である世界とその転換こそが『まどマギ』の本質であり、そこで演じるのは別にまどかやほむらである必要はない。あの5人だったからあの物語が生まれたのだと言いたい気持ちはわかるし、いくつもの因果が絡まって起こった奇跡だと言っても言い過ぎではないと思うけど、例えばもうあと一万年待てば似たような反応が起こる可能性はじゅうぶんにある。いや、そりゃあ作品のタイトルは違うものになるだろうけど。

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そういう解釈を前提とすると、さすがにこの短期間に2度は多すぎる、不自然ではないか、という感覚もある。なぜ世界は2度も書き換えられたのか。

僕はテレビシリーズを観た段階でその世界観に納得していたので、別に2度目は無くてもそんなに困らなかった。ただ、【救済後の世界】について釈然としないことがあったのは事実だ。ファンタジーなので別にいいか、とは思っていたけど。しかしいざ『叛逆の物語』を観てしまうと、その「釈然としないこと」が一定の意味を持つように思えてくるので困る(沼)。

2回の世界の書き換え、まどかのアガペーによる「救済」とほむらのエゴである「叛逆」は、強烈に対比される。ただ、善悪や良否についての判断は留保され、おそらくは観客の判断に委ねられている。『叛逆の物語』の結末に何を思うかは観る人によってかなり差があるかもしれないが、作品としてはほむらの考えと行動を支持し、肯定的に描いているように思える。特にエンディングの歌『君の銀の庭』がそう思わせる。そこまでの2時間かなりの緊張感をもって描かれた世界を、軽やかなワルツに乗せてメルヘンチックなサウンドで歌い上げてしまうのだ。不気味にも感じるが、おそらくこれは素直にほむらに対する労い、そこで起こったことへの言祝ぎである。(ただ、その後のパートには破滅的なもの、世界の綻びを感じる。解釈はできてない。)

反対に、まどかによる【救済後の世界】における魔法少女の運命については、尊く大きな犠牲を払った(という印象を観ているものに与えた)割にあまり良い評価をされていない。マミさんのコメントは「それが運命なので仕方のないこと」という感じ。さやかに至ってはやはり絶望をつのらせて消滅してしまう。もちろん、まどかが迎えに来て救われるという大きな改善点があるのだけど、生きていた世界ではそんなこと知りようもないということが、神の視点を持つ観客にとっては強いフラストレーションとなる。ほむらとまどかがあんなに苦しんで作り出した世界なのに!これが、もう一度世界を書き換える原動力となる。そしてそれをできるのは、全てを覚えている唯一の存在である、ほむらしかいない。ほむらの物語が作られるのは必然だ。

『叛逆の物語』で悪魔となったほむらの描き方自体は、かなり悪魔的である。彼女のエゴイズムを強烈に押し出した表現を重ねる。それまでのほむらの苦悩を知るもの(観客)の感情を追い越していき、僕はほむらを後ろから眺めることになる。【叛逆後の世界】でさやかはほむらに対してまどかを奪ったことに憤るが、結果的にほむらによって「救われて」もいる。マミさんや杏子も然り、なぎさ(ベベ)もまた死の運命を逃れることになった。実際、この世界に変わったことででだれか具体的な「損」をするのか、よくわからない。いや、インキュベーターがいるか。やつらにすべての責任を負わせる形で悪魔ほむらによって書き換えられた世界(それは宇宙の終焉を意味する可能性すらあるが)で、世界のために命を落とした魔法少女達は自分のための幸せを見つけることになる。あまりにいびつだが、妙に腑に落ちる世界だ。

そもそもすべての魔法少女は「自分のため」に願いを叶えたはずで、それはエゴに他ならない。ほむらはそれを肯定する。身勝手な願いを叶えたからといって、世界のために自己を犠牲にする必要なんてない。世界の秩序を乱す悪魔の誘惑かもしれない、その先にはやはり絶望が待っているのかもしれないが、それは人として生きることでもある。そして、インキュベーターとの契約により人間ではなくなってしまった魔法少女が人としての幸せを取り戻すことを「悪」と断じることなど、僕にはできない。

結局のところ、希望も、絶望も、救いも、叛逆も、どれも属人的で不完全なんである。まどかを「理」あるいは「神」、ほむらを「悪魔」と呼んだところで、それは絶対的なものにはなり得ない。個の結びつきという綻びからほどけてしまうことを避けられない。

だから当然、ほむらの【叛逆後の世界】も、どういう理由にせよ、近いうちにさらに書き換えられるだろう。あるいは、【はじまりの世界】だってもしかしたら書き換え後の世界だったのかもしれない。したがって、なぜ世界は2度も書き換えられたのか、という問いは意味を持たない。ある特定の(互いに関連の強い)2度を描いた作品だった、というだけのことだ。

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『まどマギ』の世界を語るとき、もうひとつ解決しておくべきことがある。「少女」というものをどう理解するかだ。

「なぜ少女である必要があるのか」というのは、「魔法少女」というモチーフを扱ううえでどうしても付き纏う問題だ。当初僕が観ることを逡巡した理由でもある。少年ではいけないのか、大人ではいけないのか。もちろん、少年や大人が魔法を使う作品はいくらでも存在するが、いずれにしても「なぜそのジェンダーなのか」にいちいち答える作品は多くない。特に「少女」にあっては、単なる視聴者へのおもねり、つまり「萌え」であると認知されることを避けられない。『まどマギ』は、そこに一定の説明を与えている作品であるという点で安心できる(おっさんが観ることへの言い訳がたつ)が、一方でその合理性にグロテスクなものを感じてしまい、僕は観てるのが苦しかった。

『まどマギ』における魔法少女は、エネルギーを生み出す「装置」である。宇宙のエントロピー増大の抑制という目的を持つインキュベーターが、そのエネルギー源として人間の「感情」に目をつけ、効率の良い回収方法として「希望/絶望の相転移に伴うエネルギー放出」を採用。そしてそれに最も適しているのが少女であるという合理的理由で「魔法少女」のシステムを作り出した。(【救済後の世界】における魔獣退治は顕熱を利用したシステム、魔法少女は潜熱まで回収するシステムというイメージなんじゃないかと思う。)

なぜ少女なのか。もちろん、大いに絶望する少年もいるだろうが、インキュベーターから人間を客観的に観たときに、年齢と性別は最もわかりやすく普遍的に適用可能なカテゴリーであるため「第二次性徴期の女性」に決め打ちするのが最も効率が良いのだろう。これが合理的・効率的であるとは、つまり人類の社会において「少女は希望を抱き、須く絶望すべし」ということの裏返しでもある。そのようにインキュベーターが判断したのだ。それが大人でも少年でもなく少女であるということに、人類の歴史における「女性差別」を重ねてしまう。

テレビアニメはテレビ放送時にリアルタイムで観るほうが、さまざまな情報に容易にアクセスできて楽しめることも多い。しかし僕は『まどマギ』を9年前にリアルタイムで観なかったことを幸運と思う。ここ1年半ほど、ちょっとしたきっかけから「性差別」「フェミニズム」を少しずつ勉強しているのだが、それ以前に観ていたらこんな感想は出てこなかっただろう。フェミニスト批評などと大それたことは言えないが、この作品をフェミニズム的に捉えて考えられたことで、僕の中で『まどマギ』の世界はより鮮やかな色彩を持つことができている。

現代の日本では、それこそ中学生くらいまでは、あまり明確な性差別が少なくなったという。義務教育なのでクラスの男女比は1:1だし、出席番号も男子が先、女子が後、みたいなことは無くなりつつある。本人たちの意識も、一昔前とは違ってきているだろう。彼女ら・彼らは健やかに夢を見る。しかし、そこから先の進学、就職、結婚、子育てなど社会のあらゆるステージにおいて、あるいはただ電車にのり、街を歩いているだけでも「女性であるというだけで抑圧される」つまり女性差別に晒される。少女の見た夢は、目に見えない大きな力によって潰されてしまう。

魔法少女の希望/絶望のプロセスは、このような現実を映している。制作者に意図があったかはわからない。むしろ、意図されずに魔法少女システムが考え出されるほうがグロテスクである。ただ、少女の絶望を搾取するだけなら、もっと気分の悪い作品になっていただろうとは思う。現実を見る視点があったかどうかはわからないが、最後はその救済を描くということは意図されていたはずだ。いや、ファンタジーとしてはあまりに不完全な「救済」であることを思うと、『叛逆の物語』を念頭に、少女たちの救済とともに現実での幸せを祈る想いまで感じ取れる。

【救済後の世界】で魔法少女は絶望から救われるが、魔法少女から絶望が無くなるわけではない。絶望の末に呪いを振り撒くことはないが、人として幸せに生きることもできない。これを現実に引き合わせて考えるのは無粋な気もするが、少女が女性差別を内包することで「女性として」「幸せに」生きていくことを選ばざるを得ないという構造を想起させる。そう思うと【はじまりの世界】で魔女と戦う魔法少女が絶望の末に魔女となり、インキュベーターがそれを搾取する、という構図もかなり強烈だし、最近現実で見たような気もする。いずれにしてもこの社会は、少女が「女性という概念」として生きていかなければならないことを、「少女から大人へ」みたいな気持ちの悪い言葉で隠蔽している。『まどマギ』はそれを明るみに出し、さらにその異常さを観るものに突きつける。

そういえば、『まどマギ』には大人が3人しか登場しない。まどかの両親と、学校の担任だ。まどか父はただ見守る存在である。2人の大人の女性は、女性らしさの抑圧の中を戦うことで跳ね返してきたまどか母と、受け流し守ることで耐えてきた和子先生として対比されつつ、それぞれ悩みながらも大人であることをそれなりに楽しんでいる姿が描かれる。しかし、魔法少女たちは誰もそんな大人にはなれない運命にある。そして大人たちにできることは何もない。その運命に気づくことすらできない。それは、この社会で大人になるにはそうやって生きるしかないからだ。自分たちの立っている地面が、絶望した少女たちの亡骸を積み上げて作られているなど知ってはいけない。

絶望を運命づけられた少女と、それを搾取する為政者たるインキュベーター、そしてほとんどは、その犠牲のうえに世界が成立していることを知ることもなく日々を生きる人々によって構成される世界。僕にはそれが、僕がいま生きている社会を鮮やかに映してるように見える。

そんな社会への「叛逆」。希望を持つことも、絶望することも、戦うことも、逃げることも、なにも否定されない。それを搾取していた存在はもういない。不安定だけれど、自分のいちばん大切なものを大切にできる世界。そこは、君の銀の庭。


◼️おわりに

以上です。

まだまだもっと細かい話、二周目ではじめてわかる細かい表情や台詞の意味だとか、テレビシリーズと再編集の劇場版でどこがどう違ってどっちが好きとか、ほむらvsマミさん戦闘シーンがたまらなすぎてコマ送りで追っかけた話とか、まどかが泣くほむらを抱きしめて後ろに回した手で三つ編みするのが性癖に刺さりまくった話とかいくらでもしたいのだけどキリがないので。話をきいてくれる気になったらいつでも声を掛けて!待ってるからね!

あっでも僕自身は、これから沼の奥へ沈んでいきます。生きて出てこれたら、そのときにお会いしましょう。


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