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東日本大震災 が残したもの

「東日本大震災の被災のレベルの違いは、まるで色のグラデーションのように一人ひとり違っている」

以前、そのような言葉がテレビから聞こえてきた。


震災当時、私は中学2年生だった。

とても怖かったこと、家族や先生、周りの大人の人たちがたくさん頑張ってくれたことを覚えている。

最近になって、10代真っ只中の当時の私には、震災が起きたという現実を、直視出来なかったのだと気づいた。同じような感覚の人も少なくないのでは?と思う。

命があるだけで、感謝しきれないことだとは頭では理解していた。

けれども、

震災が起きてから数年間は、ずっとここじゃない場所、遠くに行きたいと思っていたし、大人になったらここからは必ず出て行かなくてはならない、出て行きたい、と考えていた。


震災から2,3年経ち、高校へ入学する際、私が通う高校では、

3学年それぞれの色(赤、緑、青)のスリッパで生活することを知った。

当時の私は、「学校で地震が起き、割れたガラスの上を歩いて逃げなきゃいけないかもしれないのに、スリッパで生活するなんて、怖い…」

と本気で思っていた。

私が高校生活を送る3年間、学校にいる間、一度も大きな地震は来なかったこともあり、今となっては、何を気にしていたのだろう、他に気にするべきところは山ほどあっただろう、と考えるようになった。そんな小さなことに不満や不安を抱えていたのは、年齢のせいか、震災の影響か、ただ過敏になっていただけなのか、分からない。

それから、テレビで「被災地を応援する歌」が流れるのがあまり好きでなかった。それどころか、何かぞっとするような感覚を覚えて、

聞きたくない、と何度も思った。

どんなに良い曲でも、歌手の方が一生懸命歌っていても、なぜだったのか、その時の私にはしっくりこなくて、なるべく見ないようにしていた。

せっかく応援や、痛みを分かち合う気持ちを込めて歌ってくれていたのに、どうしてそのようにしか感じられなかったのか、今でも疑問に思う。


それから数年経ち、短大を卒業した私にとって、東日本大震災への見方が大きく変わる出会いがあった。

◎震災当時、都心部の大学生で、ボランティアチームを自ら立ち上げ、定期的に被災地を訪れていた女性との出会い。

◎震災当時、海外で子育てや仕事をしながら、募金活動や被災地の子どもたちのケアの受け入れを積極的に行っていた方たちとの出会い。

◎東北以外の土地から、繋がりや経験を生かして支援活動を続ける方たちとの出会い。

◎どんなに遠くからでも被災地を実際に訪れて、活動してくれていた方たちとの出会い。

◎自分よりはるかに被災のレベルが大きかった友人たちとの出会い。

◎ボランティア活動を支える、色んな職種、立場の方たちとの出会い。


このようなたくさんの出会いの機会があり、私の心境は変化した。

まず、被災のレベルのグラデーションが、自分自身は被災地と呼ばれる県に住みながら、薄いほうなのだ、ということを改めて実感した。自分からなるべく遠ざけようとしていたことにも。

そして、どんなに遠く離れていても、実際に体験はしていなくても、震災に対しての想いは色濃く、長い長い時間、心にあり続け、想い続けてくれている方たちが本当にたくさんいらっしゃるということを知り、物凄く反省した。

振り返れば、それまでの私の、震災のことに触れた瞬間の対応は、誰かの傷を、さらに痛めつけてなかったか?事実から目をそらすことで、誰かの嫌な気持ちを、苦しい気持ちをあふれさせていなかったか?

おそらく、とても「必要」だったから、こうやって時間をかけて、何かのパワーが働いて、私にこのような出会いの機会を与えて頂けたのだと思う。


2022年の今年、震災から11年が過ぎた。

日々の生活に、紛れ込んでしまいそうな感情も、記憶も、

薄くなったり、塗り替えられて濃くなったり、隠れていたものがふっと現れたりして、変化し続けながら、必ず ここにある、のだ。








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