三國志人物伝 “霊帝”劉宏

後漢第12代皇帝 劉宏(156〜189)
第3代皇帝章帝の玄孫に当たる。

168年 先代の桓帝崩御に伴い即位
171年 宋氏を皇后に立てる
175年 熹平石経の作成
178年 宋皇后死去、翌年廃位
180年 何氏を皇后に立てる
188年 西園八校尉の任命
189年 崩御

後漢末期、乱れた世に発生した民衆反乱「黄巾の乱」(184年)から始まる大半の三國志の物語の開始時点の皇帝。

皇后の兄、大将軍何進や後継者問題など物語に大きく影響を与えているが、本人は黄巾の乱の5年後に崩御しており見せ場はない。

皇帝の血縁ではあったものの9代遡る必要があり遠縁の貧乏貴族に過ぎなかった彼は、相次ぐ直系の断絶によって11歳にして皇帝に祭り上げられた。
乱れた世の中で酒と女に溺れる日々
即位した時点で既に宦官が大きな実権を握っていたが、彼もまた中常侍を重用した。
張譲は我が父、趙忠は我が母という発言まで残っている。

学問には興味を示したらしく、蔡邕の奏上による熹平石経の作成を含めいくつかの政策を行っている。

また、黄巾の乱に於いて無力が露呈した後漢正規軍に関して、何進の上奏により皇軍である西園軍の創設、西園八校尉の任命を行い無上将軍を名乗る。当時は皇帝が将軍を名乗るのは異例であった。
ただし、この西園八校尉の最高位は上軍校尉 蹇碩(中常侍の1人)。
この西園八校尉には袁紹、曹操も任命されている。

霊帝には2人の息子がいる。
何皇后の息子劉弁
王美人の息子劉協

何進、何皇后に抱えられていた劉弁に対し、劉弁の性格を危惧した霊帝な劉協を据えるべく蹇碩に世話を任せていたとされる。しかし、正式に皇太子を立てずに崩御した為、後継者争いが勃発。
霊帝の意を汲んだ蹇碩による何進暗殺は失敗、逆に蹇碩が殺されてしまった。

即位から崩御まで亡国の皇帝ではあったが、旧来の評価であった彼自身が特別暗君であったかどうかは近年議論が別れる。
特に教育を受けてくることもなく急に祭り上げられた彼が腐敗しきっていた国を立て直すのに出来ることがあったかどうかは怪しい。
いずれにしても彼の時代には後漢は既に崩壊目前であった。

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