纒める難しさ

シリーズ的に色々書いていると、当然重い題材と軽い題材があって。
2つに分けたいというのが本音だったりする項目もある。

例えば三國志のネタはメイン級のキャストになるほど1つの記事に収めるのが難しい。
まだ魏呉蜀の面子は1人も出ていないというのに。

曹操の生涯を1つの記事で纏めるなど到底無理だろうと思っているのが本音だったりする。
ここに書いてる記事はある意味では既存の評価のアンチテーゼ的な部分と、メイン級しか知らない人にこんなに面白い人物がまだまだいるんだと知ってほしい気持ちと、その辺がモチベーションだったりするのだが。

需要がより多いのは誰もが知っている人物なのでそこのジレンマはあったりするし、特定の人物を語るには先代の話や後の話が必須だったり、舞台背景が重要だったりする。
清流派と宦官の関係性が無ければ中央の問題は語れない。
清流派の大政治家の子孫が袁紹で、大宦官の孫が曹操だというのは明確な事実だし、しかしそれだけの問題でもない。

どこから読んでも読めるものを作らないといけないのだ。
同じ人物伝を2つにわけるのはもってのほかだし、張角を読まないと皇甫嵩を理解できないでは意味がない。

逆にフットボール関係はその辺は諦めているところがあって、ピッチ上で起こるあらゆる事象は複合要因なのだ。
全てのものは連続性があって、あとから名前をつけているに過ぎない。
それでも名前をつけることで単純化してプレー指針を作ることが出来るのも事実だろう。
今の日本のフットボール界の問題は誰もが勝手な解釈を行い意味に統一性がなくなっていることだ。
言葉というのは重要で、可能であれば協会の技術委員会が定義をはっきりさせて明文化すべきことではある。

時代に追いつけなくならないかという議論は無駄だ。その言語の確定を怠ってきた結果一時期近づいたはずのトップレベルとの距離はむしろ離れている。

違う環境で育った選手が同じ言語で話せない環境は無駄を増やしている。個々が理解しているプレー原則がバラバラなまま寄せ集めのようなフットボールをやれば洗練されないチームが出来上がるのは当然で、外野がそれぞれの言葉で批判する地獄絵図をよく見る。
批判の言葉すらバラバラなのだから誰がやっても変わらない。
監督の問題ですらない。

この国のネット評論家を含む全ての関係者がフットボールに対して時代に合わせた定石の構築を怠った結果に過ぎない。

話が逸れた。こんな風に話を纏めるのは難しい。
そして話題が暴れだすのは少し楽しい。

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