三國志人物伝 張角

太平道創始者 大賢良師(?〜184)

184年 太平道の信徒を率いて黄巾の乱を起こす。同年病没

後漢末期、中国初の民衆反乱「黄巾の乱」を起こした張本人。

于吉の弟子が順帝の時代(125〜144)に、また孫弟子が桓帝の時代(146〜168)に朝廷に献上したものの否定された「太平清領書」を手にしそれをもとに太平道を開いたとされる。
入手経路は不明。太平清領書は現存しないが、内容は道教の経典と言える「道蔵」内に太平経に引き継がれているとされる。

また、張角の活動期間や年齢は不明だが、8人の弟子を各地に派遣。十余年余りで華北に数十万の信徒を得た。

彼は信徒を36の「方」と呼ばれる集団に分け、組織化すると武装蜂起を計画し蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下大吉というスローガンを流布。
蒼天は漢王朝を指し、甲子の年(184年の干支)の国家転覆を狙う。

同年3月5日に蜂起を予定していたが、工作の為洛陽に入っていた腹心の馬元義が部下である唐周の密告により処刑。これに伴って計画が露呈する。霊帝は衛兵や民衆を調査すると千人あまりを誅殺し張角捕縛の命を下した。

計画が漏れると前倒しで武装蜂起を起こす。彼は天公将軍を名乗り2人の弟を地公将軍、人公将軍として信徒を率いた。
当初は善戦したものの皇甫嵩らの活躍もあり、鎮圧に向かう。
張角の籠っていた広宗も10月に陥落。

陥落時既に張角は病死しており、討伐軍は棺を暴いて遺体を刑罰に処し、斬首した首を洛陽で木に吊るした。

この後残党や別の賊が度々蜂起するようになる。
また、官軍では自領を守ることができないことが露呈した為、各地の豪族は自前の軍を強めることに繋がり、群雄割拠の下地を作った。また、中央の腐敗を避け各地に流れる知識人が増えることとなる。

中国初の民衆反乱にして、宗教反乱であった黄巾の乱は非常に組織化されており、正規軍には劣るものの半年以上も交戦を続けた。ただし、張角を筆頭に特定の指導者に頼る体制であり、時間の経過と共に指導者を失った集団が瓦解していくのは致し方ないところか。
民衆反乱という性質上からも長期の交戦に耐えれるものではなかった為、馬元義の洛陽での工作失敗は手痛い打撃になったと思われる。

人を増やす手腕、組織化や工作活動の手際などを鑑みれば彼は怪しげな教祖でも妖術使いでもなかった。
国家転覆を狙った革命家であり、それは失敗に終わった。

ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?