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アキ映画の主人公たちは、その日その日を刹那的に暮らすが、いざという時の踏ん張りどころを心得ていて、一筋の微光を見逃さない。

ながくなるけどちゃんと書いてみよう。(何をって映画についてだよ) 映画はボクの人生の伴走者なんだ。(いや伴奏者かな) だけど記憶の中の映画には実体がない。脳内スクリーンのイメージってボクの無意識の投影だからさ。倒錯的に触発された内面の現象がランダムに拡散して雲のように流動するのさ。
思い返せば、いろんな映画を観てきたよ。アクションもロマンスもSFもドキュメンタリーも。産地もいろいろでさ、アメリカもヨーロッパも中東も南米もアフリカもアジアも、街角のポスターと情報誌「ぴあ」の告知に誘われてフラフラと宙を漂うように映画館へと引き寄せられたものだ。
埼玉に住んでいた高校生のボクは、池袋や新宿や渋谷、中野や神保町の(当時は名画座と呼ばれていた)ミニシアターに足繁く通った。ニキビ面の若造が背伸びして、イカした都市文化に染められるための、それは儀式だった。
ロードショーなら有楽町と日比谷だ。たいていは一人で観る。劇場の椅子に深くはまり込んで白い夢に没頭する。夢は霞んで意識と混じり合う。だから映画を見終わって町へ出ても夢とうつつの境界がわからない。現実の景色まで陽炎のようにユラユラと揺れているし、ボクの身体も重力に逆らって浮遊する。納得のいかない些細な事柄だってホコリのように街路を舞っている。ブラウン運動のように不規則に震えながら、それぞれの粒子はチカッと輝いては消えていく。羽根の生えた妖精がゾクゾクする艶めかしい声で耳元で何かを囁いた。けれど言葉は聞き取れない。それは人間の話す言葉じゃない。
なにを隠そう、ボクはフィンランドの映画監督アキ・カウリスマキのファンなのだ。彼の緻密なおかしさに悦楽を得ている。冴えない人々の振るまいが滑稽で泣けるのだ。デイヴィッド・リンチ、ジム・ジャームッシュ、ヴィム・ヴェンダース、ラース・フォン・トリアー、エミール・クストリッツァ、アンドレイ・タルコフスキーらの作品も妙な甘さと凜とした厳しさが控えていて既製の殻を突破しているけれど、アキの映画のコメディっぷりときたら、チャップリンとキートンとマルクス兄弟とホイ三兄弟たちとは別格の笑劇技法を編み出しているとボクは思う。
話は飛ぶけど、こうした破天荒な監督たちには職業意識ってあるのかな。映画づくりを生業(なりわい)として生活を営んでいるのかな。想像もつかないな。ヘンな疑問が湧いてしまったけど、べつに答えを求めているわけではないんだ。思考の枝分かれってあるでしょ。ただボクが惹かれる映画監督たちの顔触れを紹介しておきたかっただけなのに勢いで話題が息づいて弾んだのさ。(つまり余談)
どちらかというとペシミストのボクにとって、この師匠たちの存在は堤防の役割を果たしてくれる。岩のような父の威厳に近いと思う。押し寄せる諦めと哀しみの洪水から、溺れそうなボクの精神を守ってくれている。それは還暦を過ぎた今も変わらない。そそり立つ堤防は決壊せずに営々とボクの小さな泉をガードし続けてくれているのだ。人って孤独には耐えられないし、大人になっても精神は幼い。そんなときには映画なんだよヤマちゃん。
2023年の年末に有楽町の角川シネマ(2010年まではシネカノンだった)でアキ・カウリスマキの新作「枯れ葉」を観た。その一ヶ月後(2024年正月)には渋谷のユーロ・スペースで観た。
アキ・カウリスマキ監督は六年前の引退宣言を撤回したのだな。まさかの新作上映に胸の高鳴りが大揺れする。孤独の輝きを描かせたらアキの右に出る者はいない。
新作[枯れ葉]には、「仲間を置き去りにしない」というアキの座右の銘が健在だった。毎度おなじ噺に膝を打つ古典落語のように期待通りでとてもうれしい。
理不尽な理由で仲間を解雇するなら私たちも辞めると雇用者に詰め寄る職場(スーパーマーケット)の同僚たちの行動にボクは痺れる。これなんだよ。遺伝子の繁殖原理が利己的であっても、小さな人間のひとりひとりは利他的に振る舞うことができる。わかりにくい言い方で申し訳ない。けなげな個人の意志に磨きをかけて提示するアキの手腕をボクは讃えているのだ。
さて、ボクは今までに18本のアキ映画を観ている。ラインナップはざっとこんな感じだ。

[罪と罰 白夜のラスコーリニコフ](1983年)
劇映画第一作がドストエフスキーなんて勇気があるよなあ。 舞台は陰鬱さが美しいヘルシンキ。 仕草も台詞もミニマリズムだ。殺人事件は突然起こる。迷った末に自首する主人公。冷ややかなのに情熱的なアキの底意地が感じられる。
[カラマリ・ユニオン](1985年)
理屈っぽいが冴えない男たちがカフェに集まって秘密会議を開いている。男たちの名前は全員フランク。(英語を喋る男だけペッカ) 貧民地区から脱出したい。町の向こうには解放区エイラがあるという。逃げ道がわからずもがきながら、フランクは一人ずつ死んでいく。不条理ロックンロールな逃亡劇。最後に残った二人のフランクが手こぎボートで海へと漕ぎ出す。爆音が聞こえて映画は終わる。
[パラダイスの夕暮れ](1986年)
ゴミ収集人ニカンデルとスーパーのレジ係イロナの恋物語。だけど、そうはうまくいかない。独立を目指した清掃会社の相棒が急死する。ニカンデルは窓辺に立って外を見る。イロナは不満顔を崩さない。貧乏は詩的だ。友だちに金を借りて、二人は港から船に乗る。
「茂みに追いやられたネズミがどんなふうに歯をむき出しているか見てみよう。」(by アキ・カウリスマキ)
[ハムレット・ゴーズ・ビジネス](1987年)
製紙工場の社長が殺された。経営陣の欲深き企みが錯綜する。御曹司のハムレットは苦悩し、「吐き気だけで生きてる」と呟いた。これ見よがしな劇中劇が挿入される。愛しのオフィーリアは睡眠薬を飲んでバスタブに沈む。世界は悲劇に満ちている。
[真夜中の虹](1988年)
炭鉱が閉鎖される。失業したカスリネンは拳銃自殺した父親から譲り受けた白いキャデラックに乗り込み、意気込んで旅に出る。だが有り金をカツアゲされ、日雇い労働者として木賃宿で寝る。子持ちの未亡人と出会い一夜を共にする。カツアゲ犯を殴って刑務所に入る。脱獄して銀行を襲い金を作る。未亡人と子供を連れて船に乗りメキシコへ向かう。オーバー・ザ・レインボウの楽曲が流れてエンドクレジット。凜とした潔さが漂う。
[レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ] (1989年)
とんがりリーゼント頭の売れないロックバンドがシベリアのツンドラ地帯を出発してアメリカを巡業する。黒いスーツにサングラス、皮靴の先も尖っている。マネージャーは少ない稼ぎの上前をはねる。とうとうメキシコまで辿り着き、陽気な結婚式で楽しく演奏して映画は終わる。ジム・ジャームッシュもちょいと顔を出す。
[マッチ工場の少女](1990年)
マッチ工場で働く哀れな淑女イーリスの復讐劇。無関心な母、傲慢な継父。テレビでは天安門事件のニュース映像。台詞は少ない。月下美人の花が咲く。黙々と進行する怨嗟のストーリーは張り詰め続け、エンドシーンにコロリと落ちて通念を揺さぶる。
[コントラクト・キラー](1990年)
舞台はロンドン。静かな日常。事務職のフランス人(ジャン=ピエール・レオー)が失業する。首を吊るが縄が切れた。自分を殺せと殺し屋に依頼する。花を売る女に恋をした。生きたくなる。老いた殺し屋は癌を患い自殺する。女は駅で遠距離の切符を買い、フランス人を迎えにいく。
[ラヴィ・ド・ボエーム](1992年)
舞台はパリ。作家と作曲家と画家。冴えない三人男のけなげで意固地な貧乏生活。ときどき入る金をまわし合って、かろうじて暮らしを立てる。犬が食べていた肉の骨でスープのダシをとる。画家の恋人が病に倒れ死にいたる。画家は犬を連れて去る。 ♫「雪の降る町を〜」(日本語)が流れる。
[レニングラード・カウボーイズ、モーゼに会う](1994年)
あれから五年、とんがりリーゼント頭の売れないロックバンドは、また旅に出る。NYはコニーアイランドのクラブで演奏するがウケない。モーセと名乗る男が現れた。モーセは自由の女神の鼻を切り取る。バンドは海を渡りヨーロッパを放浪する。聖書とマルクスがねじれ合う、大いなる空まわり。
[愛しのタチアナ](1994年)
ミシンを踏む男(洋裁店の息子)が口うるさい母親を納戸に閉じ込める。冴えない自動車整備工の友人と二人で旅に出た。道行きでエストニア人とベラルーシ人の女二人連れと出会い、港まで送ることになる。会話の少ない四人組の北欧ドライブ珍道中。ミシン踏みの男だけが自宅(日常)に戻る。整備工は女の国(エストニア)で暮らすことにした。マッティ・ペロンパー最後の出演作。
[浮き雲](1996年)
イロナは老舗レストランの給仕長、夫ラウリはトラムの運転手だった。実直な夫婦はともに失業する。
ならば夫婦でレストランを経営しよう。仲間だったアル中のコックも誘った。 出資者も現れた。
悲観より楽観の方がやや上まわる。そして開店の日を迎える。亡きペロンパーの弔い作品でもある。
[白い花びら](1999年)
モノクローム、無声映画。農家の夫婦、ユハとマルヤ。つましいながらも、おだやかな生活に満足していた。そこへ裕福な紳士シェメイッカが現れてマルヤを口説く。置き手紙を残して家を出るマルヤ。シェメイッカは犯罪組織のスカウトだった。監禁されるマルヤ。ユハはアジトに乗り込んでマルヤを救い出すが、シュメイッカに撃たれて死ぬ。乳児を抱いて力強く歩き去るマルヤ。
[結婚は10分で決める](2001年/短編/10ミニッツオールダー)
短編映画は人生の縮図だ。刑務所から出た寡黙な男が女と出会い、人生をやり直す。
[過去のない男](2002年/カンヌ映画祭グランプリ)
蟹江敬三に似た男は夜汽車に乗って町へ出た。公園で暴漢に襲われ記憶をなくす。波止場のコンテナで暮らし始める。荒れた地面にジャガイモを植える。救世軍の女に恋をする。日雇いの職を得る。コンテナの部屋で女に手料理を振る舞う。救世軍バンドのロックコンサートを主催する。男には妻がいたのだが離婚が成立していた。救世軍の女と手を繋いで歩いていく。
[街のあかり](2006年)
プライドは高いが冴えない警備員。友達もいない。波止場のホットドッグスタンドの女店員だけが話し相手だ。起業を考えるが資金はない。カフェで出会った金髪女とデートする。女はギャングの情婦だった。薬で眠らされ貴金属店の鍵を奪われる。商品が盗まれる。警備員は懲役二ヶ月。出所してギャングに斬りかかるが、返り討ちに遭い、波止場で倒れる。警備員は血を流しながらホットドッグスタンドの女と手を握り合う。「まだ死ねない」とつぶやく。
[ル・アーヴルの靴みがき](2011年)
駅前に高齢の靴磨きがいる。客は少ない。路地裏の青いバラックにやさしい妻が待っていた。港のコンテナでアフリカからの密航者が発見される。利発な少年が逃げ出す。靴磨きの妻が急病で入院する。靴磨きは少年をかくまう。ご近所さんも協力してくれる。黒いコートの刑事が少年を追う。慈善コンサートを開催する。売上金で少年を船に乗せる。刑事は見ぬふりをする。妻が退院する。小さな庭の細い桜が満開である。
[希望のかなた](2017年/ベルリン映画祭監督賞)
ヘルシンキの港。タンカーに積まれた石炭の中からシリア難民のリカードが現れる。巨躯のヴィクストロムは結婚指輪を置いて家を出る。妻は酒をあおっている。リカードは警察に出向いて難民申請を行い収容所に入る。ヴィクストロムは(儲からない)服飾問屋を閉じてレストランを開きたい。闇カジノで資金を作る。手頃なレストランを買う。リカードの難民申請は却下され、収容所を脱走する。暴漢に襲われるがホームレスの一群に助けられる。ヴィクストロムに拾われレストランで働く。リカードは逃げ別れた妹と再会する。妹も難民申請をする。ヴィクストロムは禁酒した妻をフロア長に迎える。リカードが暴漢に刺され波止場に横たわる。彼は穏やかな表情を浮かべている。
[枯れ葉](2023年/カンヌ映画祭審査員賞)
スーパー店員の女が不当な理由で解雇された。店員仲間も連帯して辞職する。工場で働く背の高い男は飲酒して事故を起こし解雇される。失業した男と女がカラオケバーで出会い恋に落ちる。二人の初デートはゾンビ映画だ。恋はうまく育たない。意地を張ったりトラムにはねられたりとツイてない二人なのだ。男はとうとう酒を断った。女は意識不明の男を介護する。気持ちが繋がる。落ち葉が舞い散る公園を、男と女は仲良く並んで歩き去る。拾った犬も連れて行く。

上記作品のすべてをティモ・サルミネンが撮影している。冷徹なのに情感がにじむアキ映画のノスタルジックな映像印象はティモの手腕によるものだ。フィンランドの名カメラマンである。イメージの陰影に奥深い物語が籠められている。
さて、アキ映画はどれも似ている。なかでも今回の[枯れ葉]は「浮雲」に近い。失業と一目惚れがモチーフに置かれる。雇用の欺瞞も底流のテーマだ。貨幣システムの不条理も足首に眩みついてくる。主人公の言動に(ボク自身の事柄として)思い当たる節があるのもアキ映画の慣例だと言える。
人と人の対話は言葉よりもまなざしの交錯によって表される。主な登場人物は苦境に陥っても仲間を置き去りにしない。なのに態度はニヒルで、視線は宙を睨んでいる。もうなにがハッピーなのかわからない。だけど作品の製作年代によって表情は変化する。たゆたう時代の断片(横顔)がペタペタと貼り付けてあるからだ。俳優も老ける。ゆっくりと変成する世界状況を定点観測していると思えばいい。
そのように、新作[枯れ葉]は、誰かがアキ・カウリスマキの真似をして作った映画かと思うほどアキ・カウリスマキらしい作品だった。もちろん本人の作品である。あいかわらずカット割りには大胆な省略が施されていて時間経過は小気味よくジャンプする。カットが示す意図の明快さは無声映画のようだ。セリフに頼らず絵とアクションで納得させる。そして、コメディなのにシリアスだから可笑しいのに悲しくて胸筋がキュッと締まる。だからアキの映画は病みつきになる。
[枯れ葉]のストーリー展開は、まず物静かな女アンサと背の高い男ホラッパが失業する。これが物語の起点。近代社会なら労働は美徳だから無職は罪であるかもしれないと思わせる。(無職だっていいじゃないかとボクは思う。) これは失業した女と男の恋物語。女は男からの電話を待つ。男は電話番号のメモをなくしている。女は男の来訪を待つ。男はトラムにはねられている。悪意のない障害が二人を分かつ。新海誠監督の[君の名は。]のような「偶然的に出会えない二人の状況設定」に、観客は身をよじる。
アキ映画では空間にも時間にも特有の間が置かれている。思いっきり現実なのに妙に時空がズレていて、超越した世捨て人の気分も味わえるのが不思議だ。そのわりにパッと見ただけで状況を理解できる明解な印象がある。霊的な理性が時の間を埋めている。
このように、路地裏の地べたに置いた廃品のソファに腰掛けて往来の情景を他人事のように眺める視線で主観映画を演出する監督を他に知らない。ジム・ジャームッシュなら場末のバーでハイスツールに腰を引っかけてニヤリと笑ってスタイルを決めるところだ。(ジャームッシュも語り始めたら長くなる)
アメリカ文化への憧れは恥ずかしいけど隠せない。ボクだってジャズやロックやポップアートに酔いしれる。
この新作[枯れ葉]を、これまでのアキ映画の集大成のように論じてみても的を射ることはできない。鑑賞後の感想を思いつくままに語り始めても、これまでのどの作品を語っているのか我ながらわからなくなってしまう。どの作品にでも当てはるようなことを述べている凡庸な自分を発見して興が醒める。
だからといって、アキは孤独を否定しない。孤独のみが孤独を理解するのだから。孤独者たちの楽園を描く作家だと言ってみる。コメディの形式にしてあるのはアキの自虐的な照れ隠しなんだとボクは思っている。(あなたにも思い当たる節があるだろう)
劇場の暗闇から町へ出れば眩しい太陽に照らされてボクは恥ずかしくなった。
「人生の意味とは、自然と人類を大切にする自分のモラルを作り上げ、それを持ち続けること」だと アキ・カウリスマキは(小学生の質問に)答えた。
それはそれとして、ボクが新作[枯れ葉]に些細な違和を感じたのはアキ映画のラストシーンにはふさわしくない形式的な幸福感だった。この結末じゃ終われないんだよな。階段の踊り場で立ち止まってひと息ついてみる休憩の時間じゃないんだからさ。すなわち毒がないのよ。アキ映画のラストシーンには(いつもなら)不器用な矛盾が埋め込まれてあるの。ハッピーエンドのように見えて、あとからゾッとする、またはバッドエンドのように見えて安堵感があるといった裏腹な緊張が[枯れ葉]には感じられなかったのよ。どうしたんだアキ。もう一本撮らねばならなくなったなあ。
アキ映画の登場人物はおおむね表情が硬いんだ。瞳の行方が空を彷徨っている。まぶたや頬や口元をわずかに変化させる芝居こそが、観客の深層心理を刺激して共感を呼ぶなどと映画の教科書には書いてないけど、(アキ映画の場合は)その効果は抜群だ。観客の意識を登場人物の顔に注がせて、震えるような微動に感情の起伏を感じさせる。
ボクは渋谷円山町の坂道を下りながら淫猥な横道の歪んだ隙間を堅い表情で睨んだ。
アキが小津安二郎の演出を参考にしているかどうかには興味が湧かない。だからなんだというのか。そういうネタを誰かが理屈っぽく書いてるけど、アキと小津では作品が指さす恒星の方位がアンタレスとシリウスくらいに違うんだよ。
でもね、、、アキも小津も我慢しながら生きる普通の人々を見つめている。彼らが描くその日その日の生活シーンには善悪の彼岸を超えたおおらかな東洋的世界観が滲んでいる。生々流転。

https://kareha-movie.com/

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