#3【日記のようなメモ】「わかりました」「承知しました」という言葉について。

言葉というものは、その人の姿勢を表す。

僕は細かい言葉のやりとりがわりと気になるタイプだ。「承知しました。」「わかりました。」とすぐいうタイプは、だいたいわかったフリをしていることが多い。あくまでも、僕の中のケーススタディ的ないろんなところとコミュニケーションをとってみた傾向くらいに思ってもらってよい。別に特定の誰かを非難したいとか貶めたいとか、まったくないから、気軽に眺めてほしい。笑

承知しました。とわかりました。というのは、そこで思考が遮断され、それ以上の会話の余地が残されなくなる。そして、少ない会話ですぐわかりました。承知しました。と終わりを告げると、だいたいニュアンスや中身が伝わってないことが多く、後から大変なことになる。

それって、こういうことですか?こういう理解であってますか?と聞いてくる人は、だいたい、すり合わせができていく。わかりました。といって、全部理解している人ももちろんいるから、一概には言えない。

だが「承知しました。」というのは、むず痒い。僕は、基本年下でも、年上でも、基本的に勝手に対等だと思って人に接することが多い。同じ人間だし。という根本思考がある。しかし、承知しました。という言葉はクライアントと発注側という関係性をつくってしまう。勝手に上下ができてしまうんだ。それが気持ちが悪い。

前に、何かの本で読んだが「わかりました」は「きこえました」という意味で、理解したという意味ではないということが書いてあった。なるほど!そうか!と目から鱗だったのを覚えている。わかりました。と答えた人のことを信用して、待っていると、だいたい理解できてないことが確かに多い。それは、やはり、早合点をして、理解したつもりでいるということに気づかないということなのだろうなと最近は思う。

僕も子供のころ親とかに「わかったからもー。」と何回も言っていた記憶がある。これは、大人になった今よくわかるけど、全くわかってなかったことがわかる。めんどくさくて、そのくらいわかってるからそれ以上言わないでくれ!という拒否感を示す、遮断したいことを示すときに使う言葉なんだと、最近は気づいてきた。

コミュニケーションというのはめんどくさいが面白い。

本質的な地域文化の継承を。