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女は股の間に悪いもん持って生まれてくる

っていうのは、舞城王太郎の小説「ソマリア、サッチ・ア・スウィートハート」の中にあった一節。

私は時々、どうして自分に性器がついているのか不可解で堪らなくなることがある。
ひどい時には、不要だとすら思う。
そんな気持ちに襲われた時はいつも、アフリカやその他一部の国々で行なわれている女子割礼の風習について想像してみる。
その風習が根づいた土地に住む女性はみな成人すると共に、通過儀礼と称して外性器を切除され、膣を縫い合わされるのだという。
むごい話だ、と思う反面、(妊娠でなく)性行為そのものが不可能な体になるというのは、そしてそういった体で生きていくというのは、一体どんな心地なのだろうかと非常に強い興味を覚える。
不謹慎ですみません。

実際に膣を縫い合わせてみたいわけじゃない。
痛いし、怖いし、きっと最悪だ。
でもこの穴さえなくなってしまえば?或いは初めから持たずに生まれてきていたなら?
そんなifの自分を、どうしても想像せずにはいられない。

セックスに限界を感じてる。
それを覚えた10代後半から今現在に至るまで、ずっと心に解きようのない絡まりを抱えている。
その絡まりのせいで、私はセックスを終えると決まって静かに泣く。
隣で寝ている誰かを起こさないよう声を殺して泣く。
もうこんなことはやめにしよう、と強く心に誓っては、また誰かと関係を持つ日々の繰り返し。
仮に例の割礼を行なってしまえばこんな性欲も消え失せるんだろうか。
それとも性器の有無に関係なく、性欲というのは湧き起こるものなんだろうか。

人を好きになっても、(この人はもし私に入れる穴が無くても変わらず側にいてくれるのかな)などと不毛な猜疑心が生まれてしまって、やり切れない。
性愛抜きに恋愛関係を成り立たせることは不可能なのかな。
出来てる人たちもいるんだろうけど、私の至らなさ故にそこに到達出来ないだけなのかもしれない。

思うにセックスって、愛情表現の一つとして数えるにはややグロテスク過ぎるんだよね。
みっともなくて、滑稽で。
でも通俗的にはあれが愛し合うってことなんでしょ?分かんないよ。全然。

女は股の間に悪いもん持って生まれてくる。
本当にそうだ。
自分の体なんて、やっぱり気持ち悪いもんな。
肉体と肉体がおぞましく交わるだけのことを、それを愛と定義するだなんて、馬鹿げてるよ。

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