休養

日本に帰ってきてからというもの、およそ休まる時を過ごした時を思い出せない。唯一じんわりと慰めてくれる記憶には、人の家に泊まった朝、1人早く目が覚めて珈琲を淹れて本を読んだ、彼の本棚にあった、石原吉郎の詩集のシベリア抑留の話を、朝のぼーっとした頭で読んだ、それだけを覚えている。
思えばトゥールーズでは、日長3、4時間は本を読む時間があり、本を読む、絵を描く、映画を見る、ということは、それ自体を目的とした時間としては存在せず、ただぽっかりと空いたわたしの世界に、そうした芸術が入り込んで、座って行く、それは、縁側に近所の人が、ちょっと立ち寄ってお茶を出すような、そういった時間を消費する感覚のないものであったように感じる。
例えば日本に帰ってきて、唯一のその朝、朝の時間を消費するために本を取り出したのではなく、彼の息遣いに触れる本棚を見ると、そこに佇んでいた詩人と出会い、ちょっと話をしただけにすぎなく、おおよそ目的などはなく、そこに、立ち止まっていたのである。
電車の中の読書にストレスを覚えることなど今まで無かったのに、今は時間の流れを肌に感じてその言葉を聞くことに、どうも慣れなくて、例えば渋谷から吉祥寺にかけて、井の頭線急行に乗りながら読んだ安部公房の「手」は、ちょうど吉祥寺に着いたと同時に読み終わったが、ゆっくり見返すこともなく、大勢の人に押されて無理矢理に文庫本を閉じて、その流れに揺られて改札まで来た時、わたしの関心は、いかに早く中央線にのるかということにうつっていた。物語との別れの挨拶なしに席を立って、まるで自分の現実にいなかったかのように無視して次の用事のことや、何時までに国立に着くかなど考えることは、いわばたまたま説明会で隣になって話し、帰りの電車まで一緒に歩いたのにも関わらず、突然旧友に会って話し込み、気づけば別れの挨拶や余韻なしにその人はいなくなっているかのような、気まずさがあるのである。

就活と、引越しと、バイトと、付き合いで、必死になって予定を渡りゆくわたしは、予定にのっとられた身体を抱えて、一体どこまで渡って行けるのか。トゥールーズにいたころ、あんなにも憧れた渡り鳥たちに近づけば近づくほどわたしは、落下しそうな翼を奮い立たせて東へ行っては西に行く。渡り鳥たちは確かに言語の壁のない空を飛び回るのだが、飛び回る、絶えず循環し、止まることを許されない生である。わたしは回ることに疲れてしまったよ、カモメ。


就活、サマーインターンに向けて、周りの就活生はESを書いて出している。わたしはまだ、留学後の身分を引き摺りながら、マイナビのアプリをスクロールするだけで、一件も書いていない。わたしがどんな業種に向いているか、わたしがしたいことはなんなのか、28,000の会社と睨めっこして、わたしが笑わさられるか笑わせるか、そういうことを漫然と思って目をあげた先にはいつも、どこの駅からも見えるような白と灰色と、たまにオレンジ色の中型ビルがまっすぐ伸びた道の両脇に太古に白化した珊瑚礁の群れのように建つ東京が見えて、太古にそこを住処にした動物たちのことを考える。珊瑚の中には空洞があって、そこに共生したものたちは、やがてその空洞がかたくいきるのに適さないことを知らないまま、一緒に白化していくのだ。


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