映画『死刑にいたる病』を哲学する
先日、映画『死刑にいたる病』を事前知識ゼロで視聴しました。
◯◯を哲学するシリーズでは、アニメ・映画・お笑い等のエンタメ作品を通じて毎回自分なりにその作品から何かしらテーマを抽出して哲学していこうかなと思ってます。かっこつけて「哲学」という言葉を使うだけで実際はそんな堅苦しいものではなく単に「考えてみる」程度なもので単なる考察とも言えます。
本件は、ネタバレを含みますのでご注意ください。
あらすじ・解説
結局、死刑にいたる病とは何なのか
「死刑にいたる病」というタイトルはキルケゴール「死にいたる病」をもじっていることはすぐわかる。実際、作中の大学の講義でそれが扱われている場面も出てくる。
キルケゴールは絶望こそが人間にとってもっとも恐るべき死に至る病であると言ったが、この作品内の榛村大和(連続殺人犯)からは絶望という印象は薄い。淡々と彼にとってそれが当たり前のように人を殺している。
「信頼関係を築いた人をいたぶる。そういう風にしか人と付き合えない。ずっとそうなんだ。僕もある意味被害者だよ。わかるよね。望まれずに生まれた子供は生きてることを恨むようになる。」と作中で述べていたり、14歳で女子小学生に残虐な暴行をしたシーンは描かれている。
生まれながらのサイコパスなのかというところがあまり細かく描かれていないが、この作品に出てくる人の殆どは幼少期に何かしらのトラウマを抱えている。彼もそうだったと考えるのが自然。
死刑にいたる病とは、シンプルに捉えれば「人をいたぶることでしか生きられない」彼のような精神状態になることを指すのだろうか。
この作品に出てくるほとんどの人は、子供時代などに何らかのトラウマを抱えている。幼少期に親や環境が原因で歪んだ精神が構築されている。その精神にこの病は入り込む。真面目で善良だった主人公までも殺人に駆り立てるほどだ。それは榛村の知能によるところもあるが、そのトラウマ自体の全てが榛村のせいというわけではない。そこに解決し難い問題が見える。
この作品は勿論フィクションだが、虐待は連鎖するということはフィクションではなく事実として存在している。ショッキングな殺人も現実に存在している。
「榛村さんのお母さんの爪は綺麗でしたか」という質問
主人公が連続殺人鬼に最後にしたこの質問の真意はなんだろうか。
正直よくわからなかったが映画にある情報だけで考えれば、主人公は榛村の異常な爪への執着に注目し、それが母親に関係しているのではないか?という推理からその質問をしたと考えられる。
「僕が小さい頃はね」との返答を聞き、彼の異常な爪への執着はやはり母親から来ているものだと確信したのと同時に、「小さい頃は」ということはその爪が何らかの形で汚れてしまったことへの憎悪が見え隠れする。そんな彼の生い立ちを憂いてたしかに彼は被害者かもしれないと同情したのかもしれない。
自分を操ろうとした憎むべき相手だが、やっぱりまだ憎みきれない、複雑な心境をしている顔に見えた。
どんでん返しが教えてくれること
この作品では、善人に見える人が殺人鬼だったり、善人だった人が殺人を犯しそうになったり、善人ぶってるやつが人を虐待していたり、好意を抱いた相手が殺人鬼に心酔していたり、結局その人が何者なのかということは簡単にはわからないということを教えてくれる。
正直、誰しもが心に闇を抱えているのではないかと人間不信にすらなるかもしれない。善人ってなんだろう。自分は善人か。人間ってなんだろうというところまで立ち戻らせる。
二度目の鑑賞が笑っちゃうくらい面白いらしい
本作には二度目の鑑賞で犯人目線で鑑賞すると「笑っちゃうくらい面白い」という触れ込みがあったようだ。一度目の鑑賞でまだ胸糞の悪さというか嫌な感じが残っていて正直笑えるエンタメにはなってないので二度目の鑑賞を犯人目線でしてみてもいいかなと思いました。(しかし残虐なシーンがきつすぎる…)
原作
映画ではあまり榛村の生い立ちについて描かれていなかった。原作ではもっと色々な人物の背景描写もあるとのことで時間があれば読んでみたい。
まとまりのないノートになってしまったが、一旦これで。
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