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「じゃあ私はどうしたらいいんだ!」

職場の人と「虎に翼」の話になった。
先週、主人公である寅子が恩師・穂高先生の退官記念パーティーの席で花束贈呈役を拒否し、先生に面と向かって「許さない」とまで言ったシーンの解釈についてである。このシーンだけ取り出せば、間違いなく「恩師に対してなんという無礼を」と思うかもしれないが、実際にはそれまでの蓄積がある。

穂高先生は、司法界への女性の進出に積極的な立場で、当時としては唯一の女性のための法曹教育の場を設け、寅子に進学を勧めた。最終的に、寅子は日本で最初の女性弁護士の一人になるわけだが、その後の穂高先生の寅子への接し方は、寅子の立場・考えを尊重するものではなかった。

寅子が妊娠したときは、子どもと母体を気にするあまり、寅子に無断で寅子の所属事務所に妊娠している旨を伝えて、弁護士業を休むよう"取り計らった"。また、寅子が自らの意志で司法界に復帰した際には、穂高先生は「生活のために、やむを得ず司法界に戻ったのだ」と勝手に解釈し、またもや無断で家庭教師の職を紹介した。
ようは徹頭徹尾、寅子本人の意志を聞かず、勝手に良かれと思ってステレオタイプな「女性としてのあるべき姿」に寅子を押し込める行動を取っている訳だ。

その結果としての問題の退官記念パーティーのシーンである。
当該シーンについて、職場の人と話をしているとその人は「寅子、いいぞ」という見方をしている。一方、私は当初「なぜ、ここまで寅子が怒っているのかが分からない」という立場であったし、今までの経緯を振り返ったうえでも「そこまで言わなくても、ましてあの場で・・・」というのが正直な感想である。

いや、確かに穂高先生が寅子にしてきた仕打ちは「許さない」と言われても仕方がないものではある。ただ、それは客観的に、かつ第三者的に、解説付きで振り返ってようやく私は理解できた代物である。
つまり、きちんと振り返ったり、言われたりしなければ、そこまで問題のある行動だったと断じることが出来なかった。というか分からなかった。
それくらいに、穂高先生の行動は、少なくとも私も平気でやってしまいそうなくらいに”自然な”行動だった。

ある意味で、穂高先生は気遣いの人である。
教え子にとっての最善を考え、察して、きちんと汗をかくわけだ(忙しいはずなのに勤め先まで足を運んだり、家庭教師の仕事を斡旋している)。そこにあるのは、純粋な善意なのだ。
しかし、その気遣いの前提として、無自覚に良妻賢母像を想定してしまっている。ここが結局、寅子の意志と明確に反する部分であり、穂高先生の「良かれ」の全てが寅子にとって最悪の選択肢にしかなっていない。

とどのつまり、寅子の意志をきちんと確認しようとしない穂高先生の責任ではあるのだが、さて私たちは私たち自身の言動・行動を振り返って穂高先生になっていないと胸を張って言えるのか
少なくとも、私は言えない。おそらく、ほぼ同じことをやっている。
しかも、無自覚だし、正直、気づいていない。具体的な事例を出せと言われても思いつかない。ただ、やっていないとは言えない。

自分で言うのも何だが、私もわりと「察する」人間である。
良かれと思って、いろいろ動く。むしろ、良かれと思ったときの行動力が一番ある。シンプルに「この人のため」と思うと、自分のことより俄然やる気が出る。
でも、その行動のすべてが、その人が本当に望んでいることだったのかと言われると、分からないとしか言えない。コミュニケーションを十分に取っているとは言えないし、私の中で無意識に前提としている考え方が、その人にとっての望ましさと一致しているとは言えない。
なんなら、私の中の前提が差別的なものである可能性だって大いにある。

少なくとも成人男性という私の社会的立場はマジョリティであるし、様々な社会的関係において力関係の非対称性が生じることはまあある。
そして、残念ながらマイノリティや力関係が弱い側に対する私の理解の解像度は決して高くはない。努力不足だと言われれば、その批判は甘んじて受けるしかないのだが、やはり真の意味で理解することは厳しいと思う。残念ながら、深い意味で人の気持ちを理解する自信はない。
それを前提としたときに、私の考え方が知らず知らずに相手を傷つける、差別するということは普通にあり得る。そこに差別の意図はない。だが、無意識に差別的な言動をする、いわゆるマイクロアグレッションをしている可能性は大いにある。

もちろん、相手を傷つけたくない。しかし、それに気づけない。
知識・経験・能力が足りないゆえである。だが、それを避ける方法が分からない。

まさに、穂高先生の叫びである「謝ってもダメ、反省してもダメ、じゃあ私はどうしたらいいんだ!」そのものである。術がないのだ。

それに対する寅子の「どうもできませんよ」は正しい。傷つけられた側としては、何したって許さないにしかならない。正論である。

だが、正論は言われた側の逃げ場を失わせる。逃げ場を失った側は、やはり叫ぶしかない。「じゃあ私はどうしたらいいんだ!」と。
人を傷つけたくないのに、人を傷つける、その絶望感は耐えがたいのだ。せめて救いが欲しいが、救いがないではあんまりではないか。

どうしても穂高先生と自分が重なってしまう。そして、私はやはり穂高先生が完全に悪いとは言い切れない。いや、言い切りたくないのだろう。
少なくとも穂高先生に石を投げられないし、そうである以上「寅子、いいぞ」とは私の口からは言えないのだ。

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