見出し画像

海屋敷の日記まとめ


匂いと味が違う食べ物って意外とある。

代表格はコーヒーだろうか。
夕方ごろ、にわかに腹が減ったなという頃に漂ってくる香りは
なんだか甘くて香ばしい焼き菓子を連想させるのに、
屋敷の厨房に忍び込んでこっそり自分で淹れて飲んでみると、
ただの苦みと酸味のするお湯に変わっている。

今日の夕飯は豚キムチだった。
スーパーでパケ買いした「牡蠣醤油キムチ」が、
想像以上に癖のある酸っぱい系で、
ネコのよだれを煮詰めたみたいなにおいだったので、
(ナンプラーは子供のよだれを煮詰めたみたいなにおいがする)
「これはそのままでは完食は厳しいな」と早々に舵を切った形だ。

火を通した状態でもその強烈なよだ臭は健在だったので内心ビビりながら口に運んだのだが、
さっきまでの不安はどこへやら、
食べてみればなんて事のないうまうま豚キムに変わっていた。

特異日


11月1日は「特異日」だったらしい。
ゾロ目に加えて4つくらいおめでたい名前がついていて、市役所はめちゃくちゃ混むかも・・・と聞いて全然関係ないがちょっとワクワクした。
オタクは「特異」って単語が大好きですからね・・・。

と思っていたら、11月3日も「特異日」だというのをツイッターで知った。
こちらは統計的にめちゃくちゃ晴れの確立が高い日らしい。

確かに言われてみれば11月3日ってめっちゃ晴れてるかも。
区民祭とか文化祭とかが雨天中止になった日ってなかった気がする。
高校は超お嬢様校ですべての階からアクセスできるクソデカ渡り廊下(中庭を突っ切っていて屋根がない)があったんですが、
文化祭は毎年サボってそこでアイスを食べていたので絶対に雨ではなかったと断言できる。

と自信満々に書いたところで不安になって調べたら
11月3日が晴れだった回数は9年間で6回とのこと。
範囲が狭いのでなんか素直に信用し難いな。もっと1980年くらいからの統計で80%とかにしてほしい。

下味


ヨーグルトにメープルをかけて食べることで便通を死守しているのですが、
先日メープルシロップでカルダモンを煮ると高級メープルができる(カルダモンは捨てる)と聞いたのでやってみた。
確かに高級感が出ておいしかったけど、
いつの間にか
カルダモン+ヨーグルト = タンドリーチキン
という図式が自分の中で出来上がっていたらしくて、
「下味を食べている・・・。」と思った。

カルダモンメープルのレシピを見た時点では
「シナモンロールみたいなヨーグルトになるかも!?」と勝手なイメージを膨らませていたのでなおさらそのギャップにびっくりした。
書いていて思ったけどカルダモンだけじゃなくてシナモンスティックも一緒に煮ればよかったかも。
明日はカルダモンメープルかけた上からシナモンシュガーを振ってみます。
便を失う代わりに体脂肪を得る食い方。

ハイテクゴミ


心機一転新しいメモアプリを使ってみよう!
ということでRainDrop.ioとかいうアプリをインストールしてみたが、
インストール中にどうやらUIが全部英語ということに気づいてしまい
面倒くさくて一回も起動していない。

併せてRainDrop.ioを検索した際に1つ下に表示されていた
「雨音を流す」だけのアプリが睡眠によさそうだな!
と思ってついでにインストールしたがこちらももちろん開いていない。

そういうアプリがいっぱいある。

写真を撮るだけで花の名前を教えてくれるやつとか、
ドット絵を描けるやつとか、
入会したはいいものの家から遠いので全く行ってないジムのやつとか・・・。

高校生くらいまでの頃って、
「1つのアプリをインストールすること」に対してめちゃくちゃ慎重になっていた記憶がある。

私の周りだけかもしれないが、
「1回インストールするとその後削除してもメモリにゴミが残るから、それを繰り返すとスマホが壊れてしまう」
みたいな根拠のない恐れがあり、
かつて手あたり次第アプリをインストールすることは悪だった。

実際多少はゴミ(正確な表現が分からない)が残るのは正しいのだが、
微々たるものだし、壊れるときは大抵別要因で壊れるのでこんな心配は無用である。

子供の頃はスマホってまだ高級品というかハイテクの極みみたいな存在だったのと、
まだパケット通信などの「使いすぎ=死」みたいな概念があったので、
とにかくスマホを使うことに対して我々は慎重になっていた。

今はもうポンポコ使っている。
メモリもでかいし、町中どこへ行ってもたいていWi-Fiがあるし、
通信制限というストッパーもあるので、
「使いすぎ=死」ではなくなった。

余談だが、
小学生女子には「筆箱をいっぱい持っている女は慎ましさのかけらもない強欲なクズである」という共通認識があるので、
もしかしたらこの「アプリをいっぱいインストールするのは良くない」
みたいな思想は女学生特有の感情である可能性もある。

視神経があらぬ方向を向いている
なんかもはやずっとデスクに向かっている必要がないなと感じ始めており、
肩が凝ってきた時などはベッドにうつぶせになって作業をしたりする。

この点に一つ問題がある。

デスクにでかいモニターを置いて、それにノートPCをつなげることでデュアルモニターっぽくしているのだが、
ベッドに移動するときにHDMIケーブルをつないだまま引っ張っている。

デスクからベッドまでの距離的にケーブルの長さがギリギリで、
割と慎重に扱っていたのだが、
先日作業中に若干イラっとすることがあり、
力任せにノートPCごと引っ張ったら
「グニュウ・・・」みたいな手ごたえとともに端子部分が折れ曲がってしまったのだ。

その場で急いで折れ曲がり部分をグニグニやったら見かけ上は元通りになって接続も問題なかったので使い続けていたが、
やっぱり普通にダメだったらしく今朝になってこの有様である。

帰宅してまじまじと観察してみると、
机と同化して分かりにくいが、
画像右側のホウキみたいになっている部分が明らかに何本かあらぬ方向を向いている。

人間に例えたら視神経が何本かあらぬ方向を向いている状態。

そう考えると急に怖っ

緊急手術状態で2日くらい使い続けてごめん。

こういう使えなくなったケーブルとか乾電池とかもう使わないピカチュウの万歩計とかの処分方法がわからんなと言って放置していくうちに家は汚くなっていく。
ホコリまみれになった使ってないケーブルの山ほどうんざりするものはない。

人はそういうものから逃げるように実家を出て自分の城を築くのに、
気づけばその城も実家と同じ不要物の博物館になってしまう。

私だけは、どうか、、、、
(とか言いつつも市の処分方法とかを検索しよう、しようと思っているうちにケーブルは引き出しの奥底に潜っていく。)

寝転がっているなら逆さに貼るべきである


幼少期の奇怪な行動をふと思い出したので親に写真を送ってもらった。

「靴下入れてたタンスの写真ください」と言ってものの数分で5枚くらいこのタンスの写真を引っ張り出せる親、すご。

実家や祖父母の家、そこら中にアルバムやら写真立てがある。

この前ふと実家のリビングを見渡したら数か月前に送ったお世辞にも画質がいいとは言えない猫の写真をさらに低解像度でプリントして平皿に貼り付けて飾っていた。

な・・・なんで?

22年実家で育った娘の写真ならまだしも実家を出た娘が勝手に飼育している猫を皿に・・・?な、なんで・・・!?

私はセンスがないなりにインテリアはなるべくシンプルに、厳選したものを飾りたい派で、(といいつつスタメンの置物が多すぎて結局ごちゃついているけど)
特に壁には数枚のポストカードしか飾らない。

ので、親世代のこの「思い出の写真はとりまそこらへんに飾る」の精神をかなり理解していないのだが、
多分私も子供がいたら同じことをするだろうなという確信がある。

というのはさておき。

このぐ~チョコランタンのシール、全部逆さに貼ってあるんだけど、
これは私が「寝転がっているさま」を表現したくてこうしたんですよ。

横向きに貼った方が直感的に伝わりやすいのに、
当時の私は「寝転がっているなら逆さに貼るべきである」という強い信念のもとこう貼った。
(このピンクのやつをジャコビが踏みつけているシーンの意図は記憶していない。)

大人になった今思うとまじでいみわかんね~な・・・。
と言いたいところだが今でもなんとなくその気持ちを理解できる。
自分の考えなのでそりゃそうだけど。

道路にあるでっかい看板に、「↓マクドナルド 50km」みたいな表記があることがある。
矢印は下向きだけど、人はそれを直感で「自分の進行方向と逆だな」と理解できる。
それと似たイメージなのではないかなと思う。

シールを逆さ向きに貼ることによって、疑似的に
「寝転んでいる人を頭の方から見ている状態」を再現しようとしていた、と思う。

こう書くと2歳児の頃から頭角を現していた物理学界の天才児みたいでかっこいい・・・。
これからも自分の幼少期のよくわかんないエピソードをいい感じに捻じ曲げて生きていきたいと思います。

非実用的な寿司


イッセイミヤケのすし。
握りが小物入れ、軍艦は巾着、巻きはなんかを巻くやつになっている。

ツイッターで見て「なんだこれすげー!!!!」となって、友人に社割でゲットしてもらった。

お値段3500円。

びっくりするほど使い道がない。

手に入れたらすっかり満足してしまったので。

各パーツ、写真上はうまいこと寿司としての形を保っているが、
基本的に小物入れとか巾着としての縫製しかされていないので、
一度箱から出したら妙な色合いのシワシワの巾着になってしまった。

巻き寿司に関しては1枚の細長い布を巻いてあるだけなので、
本当にただの妙な色合いの布である。

あとこれが入ってる箱も竹とかではなくて発泡スチロールみたいな板を張り合わせてできている。
蓋に関しては完全にただの薄い板だった。

こんな・・・こんな非実用的な寿司があってたまるか。

高級な服屋ほどこういうことをしがちだと思うのは庶民の負け惜しみだろうか。

例えばサンリオなどのファンシーショップがこのような商品を出すときは、
多少雑に扱っても最低限寿司としての形を保ち続けるというか、
寿司の形に縫製したうえで巾着の機能も盛り込んでいるように思う。

このイッセイミヤケの寿司はまるきり逆で、
巾着としての縫製を優先したうえで配色と畳み方だけでどうにかギリギリ寿司に見えんこともない。みたいな方向で着地している。

強い。

これが高級ブランドの余裕なのか。

このような考えに対する反論としては、
イッセイミヤケは「pleats pleats」という標語(?)をかかげ、
プリーツを前面に出したデザインを主とした商品を展開している。

そのため、この寿司も「寿司のぬいぐるみ」路線ではなく
「プリーツでできた寿司(+小物入れ)」というテーマに基づいてデザインされたものであると考えれば、確かにこの形に行きつくのは頷ける。

そのような論理的解釈は一旦置いといて、
「そんな感じでいいんだ」と思う。

イッセイミヤケの寿司。

イッセイミヤケは日本のブランドだけど、表参道に店があったりして海外からのお客様も多いらしいから、

とりま一瞬でも寿司っぽく見えればキャッチ―だし、
それが巾着になってたらダブルで日本の文化って感じでお土産には最適だからね。

みたいなことを友人が言っていた。

それでいいのか。

イッセイミヤケの寿司。


情熱の焔が続かない

さすがにそろそろこたつ布団をしまおう、と思って布団圧縮袋を購入し、いざ圧縮・・・と思ったところで
「圧縮する前に洗って乾かせ」の文言に気づいた。

4時間かけて洗濯乾燥して、取り出したら真ん中の方が全然乾いてなかったので、
その乾いてない部分が内側になるように再度折りたたんでもう一回乾燥機にかけた。

乾いてない内側の部分にいつまでたっても温風が当たらないので3時間経ってもまだ乾いておらず、
「ベランダ窓の前の床に広げて置いておいたら朝日が当たって乾くだろう」と思い立って床に広げて置いた。

3日経った今、まだ床にこたつ布団が広げておいてある。

私はこういうところがある。

「やろう!」と思って見切り発車で取り掛かり、ちょっとでも躓くともう全部嫌になってほったらかしてしまう悪癖が。

この前も台湾カステラ作ろうとしてせっせと型にクッキングシートを敷き詰めたのに、その後で卵が足りないことに気づいて激萎えしてしまってそのままずっと机の上に紙が敷いてある型がほったらかしになってるし、

そのうち捨てようと思ってとりあえず玄関に置いておいたままシールを買いに行くのが面倒くさくて3か月放置してある粗大ごみとかもどうにかしてくれ。

一度心にともした灯をどうすれば燃えたままにできるんだ。


うますぎピーマン

先週末の買い出しをサボったせいで、冷蔵庫に豚肉とニンニクしかなくなってしまった。

重い腰を上げてえっちらおっちらスーパーに入店すると、
なんとまあツヤツヤで大ぶりなピーマンが山積みになっているではないか。

道中、うすぼんやりと「あ~なんかチンジャオ的なロースーが食いたいでヤンスねぇ・・・。」などと考えていた私にとっては願ったりかなったり以外の何物でもない。

すかさずローラーからビニール袋をカラカラと引き出し、中でもひときわ大ぶりでツヤのいいやつを10個ほど選んで帰ってきた。

半分はチンジャオのロースーに、
もう半分は縦半分に切って一晩氷水に漬けておく。
これにスイートチリソースをつけて食べると大変にうまい。

チンジャオロースーの方は種を取って縦に細切りにする。
活きのいいピーマンはヘタと種をむしり取るときのぼりっとした音すらみずみずしい。

実家を出てから知ったことだけど、ピーマンのヘタとかタネは別に取らなくても支障はない。
ピーマンの肉詰めの日はむしろ、ヘタがついたままの方が肉汁が流れ出さなくて良いのである。

野菜の端っこを多めに取ってしまいがちだ。

オクラのヘタを落とすときも、緑のフサフサの部分を1ミリくらい一緒にいってしまうし、ニラの根元の部分も、わかっていながら落としてしまう。
あとはキャベツの外側の葉も、なんとなく1枚多めにむしり取っている自覚がある。

しかし私はエンドウ豆の筋を取らないし、アスパラの袴も落とさないので、そこらへんでどうにかこうにかバランス調整をお願いできないだろうか。

話が逸れた。

今日の主役はピーマンなので、これ以上飾る必要はない。

タケノコは水煮、調味料は丸美屋である。

熱したフライパンにタケノコとピーマンを加え、油を回す意識でへらを動かす。
細切りにしたピーマンにはすぐに火が通り、鮮やかでてりてりの食材へと変化する。

箱の裏の表示を丸無視して適当に切った豚肉を加え、合わせ調味料を袋から絞り出せば完成だ。

いそいそと食卓に皿を運ぶ。陶芸作家の個展で買った大皿の薄い水色に、ツヤツヤの緑が映えるね。

一口食べてみてすぐに直感した。

「このピーマン、うますぎる。」

買ってきてすぐ調理したからだろうか、パリパリシャキシャキとした食感が楽しく、みずみずしい苦みとその奥にある甘みがさわやかに鼻から抜けていく。
うますぎるうますぎる。

旬にはまだ早いはずなのに、どうしてこんなに生き生きとしたピーマンに仕上がったんだろうか。
それとも実はピーマンの旬って春なのかしら。

こんなにうまいなら20個くらい買ってくるんだった。1個39円だったし。

1個39円でこんなに幸福を得られるとは思わなかった。

新鮮なとれたて野菜っておいしいんですね。

明日の水攻めピーマンに大きな期待を寄せて今夜は寝る。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?