川柳とは何か―《川柳アンソロジー みずうみ》(『アンソロジスト』vol.6 より)

田畑書店刊の『アンソロジスト』vol.6の特集は川柳。へえ、川柳も特集してもらえるようになったか程度の考えで取り寄せてみると、前半分(56頁中27頁まで)がまるまるこの特集ということで正直びっくりしました。内容も充実です。

収録作品より引いて感想を書きます。

はつなつがはつねつしてる水べりで/なかはられいこ
わたしの記憶わたしは記憶 水の骨組み

「水の骨組み」という把握がすごい。なかはらさんの場合、こうした感覚的な構想力と句群でそれを実現する力が抜きん出ていて、これは短詩型のメジャーな作家の特徴ではないかと思う。他の方の実力も認めたうえで巻頭はやっぱりなかはられいこだよね、と。

いい夜風襖はずして女子相撲/芳賀博子
満点の星とお揃いの刺し子

芳賀さんの句は他の方に比べて、より、具体的なモノの存在を基盤に置いている。この点では俳句の写生と共通したところがあり、そのことで主観が常に客観と対峙するかたちで現れる。川柳は客観視が重要と言われるがちゃんと観察すると現状そうなってないことが多いので、この作風は貴重で参考になる。

みずぎわのつまさき月を嗅いでいる/八上桐子
藤房のふるえる自慰に耽る舟

八上さんの句はモノよりも、世界と自分のあいだに生じる感覚や揺らぎを起点にしている(その意味で今回の題「みずうみ」は、あまりにもぴったり過ぎたかも)。擬人法というより擬動物法といった手法で、読者の皮膚の内がわに入り込んでくる。「姉」「妹」テーマの句は男性である私には分かりきれないものがある気がした(というか、読みを進めてしまうとまったく別のものになってしまうというか)。

イヤホンはスピッツ 湖西線は宙を/北村幸子
再配達します生きてて下さいね

1句目、湖西線に何度か乗った人なら分かるなあという句(私は何度も乗りました。琵琶湖線に乗ったつもりが湖西線で、余裕をもって家を出たはずが、職場につくのがぎりぎりに・・・。まさに「宙」をゆく感覚、ってそういうことではないか、笑。落ち着いて書くと、湖西線は高架が多いのです)。今回のアンソロジーは全体にどちらかというと抽象的な句が多いですが、こういう具体的なコンテクスト(設定された現実的な背景)がある句も捨てがたいです。「再配達」の句は評の樋口由紀子さんが母子関係を中心に読んでいたけど、もっと具体性を欠いた、ほぼ無生物からといってもよい声として「再配達します」を聞き取ったほうが面白そう。北村さんは「びわこ番傘」の方なんですね。「びわこ番傘」、笠川嘉一さん、德永政二さん、竹井紫乙さんら、好作家が多くて、いいんですよねー。

ゆくえふめいのかおのはんぶん/佐藤みさ子
「足よゆくな」とさざなみの声

佐藤さんの句群としても異色な気がした。一句一句がぎりぎりで句姿を保っているか、あるいは保っていないかの瀬戸際に置かれていて、そうして揺れている言葉の意味が「みずうみ」の水の揺れとして感じられる気がする。しかも、そこに込められた〈怒り〉の総量がとてつもなく大きい。ないがしろにされた自然や水が憑依しているのかも知れない。

川柳についての語りにくさ、が永山裕美さんと樋口由紀子さんの文でテーマになっていた。私も某所に書いた文でどうようのことを述べたところなので、そうですよね、と思いつつ、これはもうあんまり言ってもしょうがないor 口にしないほうがよいのかも、という気がしました(ということで、今後、川柳は分かるものだという方向で文章を書こうと個人的に決心しました。いつまで続くかは分かりませんけれど)。
 
永山さんの序文、近接ジャンルのファンからの冷静で丁寧なファンレターという感じで読みました。(ここから理屈っぽいんで、3段落先へ飛ばして読んでもいいですー)一点だけ苦情を言うと、「俳人が「桜」と言えば、今までの多くの人が詠んできた、言わば虚構の「桜」であるのに対して、川柳作家が「桜」と言えば、それは単に咲いている桜しか指さない。言葉が余計なものを背負っていないのだ。」(p.3)という部分。柳俳の区別で語ろうとする言説にはつねに単純化が生じるのでしょうがないかなと思うのですが、「川柳の桜が単に咲いている桜しか指さない」なんてことはあり得ないです。

むしろ、川柳の「桜」は「桜」ということばとして、単に咲いている桜を含むあらゆる桜(的なもの、と呼ばれるもの、あるいは「桜」という言葉自体)を指す可能性があります。そこには、「桜を見る会」の金銭・利権まみれの政治・社会もあれば、ナショナリズム高揚のために酷使されてきた「桜」のイメージがあり、幼稚園児の名札の桜のかたちがあり、「桜坂」他の数知れないJPOPの桜ソングがあり、「午後三時永田町から花が降り/阪井久良岐」のような過去の川柳からの残響もあり、さらには俳句のものだと思われている季語の蓄積もまた川柳に登場する「桜」という言葉の守備範囲です。

もちろん川柳の一句に登場する「桜」がこれらの意味、イメージを全部もっているわけはありませんが、ほかの句語の選択、また句が読まれるコンテクストによってあらゆる「桜」の含意を引き受けるのが川柳、というか、一般の「桜」という言葉でしょう。俳句は敢えてそこを「季語」という枠組みを設定して、挑発的な言い方をすれば貧しく限定することで、逆に豊かさを出しているわけですね。「川柳がわかりにくい」理由のひとつはそう考えると、句語を読みとる枠組みやレンズ(俳句でいうと季語のような)が用意されておらず、一句と対峙するごとに自分なりの枠組みやレンズを用意する必要があるところだということになりそうです。そう考えると、永山さんの「川柳作家が「桜」と言えば、それは単に咲いている桜しか指さない」も立派なひとつのレンズで、川柳にアプローチするための積極的で良質の読みでしょう。今回のアンソロジーだと、文芸川柳に初めてふれる読者にはその読みを採用してもらったほうがよいのかもしれません。
 
 樋口さんの「解説」、いつもの通り、川柳を読み解くためのキーワードを散りばめながら各人の魅力を端的に示していく切れのよい一文。印象に残ったのは、最後の佐藤みさ子さんの部分で、「どこにもない、誰の川柳とも似ず、リアルに日常を捉え、独自の厚みを出す。川柳の可笑しみや強度はここにあるのではないかと思う。言葉と実感の関係を考えせられる」と述べていることろ。その後、「川柳とは一体なんなのだろうか。また振り出しに戻ってしまった。」と続いてこの一文を締めになっているのだが、いやいや、前の部分、じゅうぶん魅力的な川柳とは何かの説明になっていますよ、とツッコんでしまいました。言葉の表現に現れる「リアルに日常を捉え[た]、独自の厚み」、それが「可笑しみや強度」として現れること、それで川柳の条件としては十分ではないだろうか。さらにそれが「誰の川柳とも似」ていないとしたら、それがまさに現在の川柳なのだと思います。
 
 特集の最後の記事は、岸波龍さんの一文「わたしたちがいま川柳に夢みていることについて」ですが、最後に引かれた「世界なりサンダーバード糸切れて/川合大祐」(『リバー・ワールド』書肆侃侃房―-記事だと誤植で「侃々房」になってますね)がすべてもっていた感じがして、痛快! 何となく、もう一度くりかえしたくなりますので、もう一度。

世界なりサンダーバード糸切れて    川合大祐


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