『筒井祥文集(セレクション柳人9)』

[ 前に書いた文章から、いま読んでもまあ読めるかなというのをこちらにあげていきます。その第一弾。]

筒井祥文『筒井祥文集(セレクション柳人9)』邑書林、2006年。

こんな手をしてると猫が見せに来る  筒井祥文(本稿の引用句はすべて)


川柳が何なのか、まだよく分からんのですが、
この人のお作には川柳性があるなあと思うのが、筒井祥文さん。


自転車で来たので自転車で帰る

忙しいのに笑わせに来てくれる

花道に少しタイルが貼ってある


前の2句はあったことをそのまま書いている、のですが、
ミョーに気になります。両方とも何のために「来た」のかを
省略することでおかしみを出している、とは解説できそうですが、
じっさい何かのためにどこかに行ったり来てもらったりしたとしても
そのことの印象は特になく、「自転車で来たので自転車で帰」った
ことだとか、「忙しいのに笑わせに来てくれ」たことしか
自分の経験としては残っていないことは、よくある。
3句目もたぶんほんとにタイルが貼ってあったんだと
思いますが、だからどうしたってわけでもない。
どうでもいいことこそが前面に出てくる、実生活のペーソス。
(古)川柳の三要素は「うがち」「滑稽」「軽み」だそうですが、
サラリーマン川柳などで嫌味に強調される「うがち」や「滑稽」より、
「軽み」こそが川柳のキモなのではないか、と思わされます。


絶景に吸い込まれたと言うことに

作れば消えてべっとりと付いている

昼の月犬がくわえて行きました


で、その「軽み」がどこから来るかと考えてみると、
コトバというものが生み出す世界からの距離にあるのではないか、と。
1句目、「吸い込まれるような絶景」というありがちな慣用表現のズラし、
それに2句目とも、目的語が欠けていることでコトバ以外の表現には
不可能なオモシロさが出ています。コトバ重視を歌っている詩歌には
ダジャレなどで頑張りすぎ、ぜんぜん面白くないものが多いですが、
コトバがモノの世界から剥離しながらそのことで私たちの
経験の内実に切り込んでくる、上のような句にこそ
コトバというものの不思議とオモシロ味があると思います。
「昼の月」の句も、現実ではありえないことも
コトバの世界ではありうるんだと遊びつくしていて楽しい。


死は真上斜線の街のポリスマン

紙の街ひとり殺せば切りがない

メモ書きを拾えばアリア今佳境


さっき「軽み」と書きましたが、ただフワフワしてるだけだとこれは出ない、
上の三句のキレやスゴミがあって、ありうるもんだな、と。
1句目、視点の構成のオモシロさ。オーソン・ウェルズ映画のカメラワーク?
2句目、コトバを遊ぶのに必須の非情さ。表現と現実、
両面にわたる思い切りとこだわりを感じます。
1-3句目すべて、どこか演劇や舞台を思わせるところがある気がします。
575音の使い方といっても、人それぞれ、句それぞれでしょうが、
祥文さんの句には、歌舞伎なんかの「見得」みたいに
びしっと角度の決まった姿のよさがあると思います。


男ありけり真下から樹を見上げ


実にオトコマエな句。「むかし男ありけり・・・」の『伊勢物語』、
在原業平を気どっています。たぶん現実は花見しながら
お酒を飲んでるんでしょうが、ふと桜を見上げたその瞬間だけ
めっちゃ男前に見えたりして・・・。いや、
作者の祥文さんがどうこうという訳ではないです(笑)。


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