〈セレクション柳人〉シリーズより

[ 前に書いた文章から、いま読んでもまあ読めるかなというのをこちらにあげていきます。その第二弾。これは2009年にブログに書いたもの。]

〈セレクション柳人〉シリーズ(邑書林)より、4人の女性作家の作品を。

『櫟田礼文集(セレクション柳人4)』邑書林、2005年。
『広瀬ちえみ集(セレクション柳人14)』邑書林、2006年。
『松永千秋集(セレクション柳人18)』邑書林、2007年。
『畑美樹(セレクション柳人12)』邑書林、2006年。

それぞれが佳句がたくさん、ですが、
5句ずつ好みで選んでコメントさせていただきます。


まず、『櫟田礼文集』、 インパクトのある句が並んでいます。

神と書き女と書いて獣と書く     櫟田礼文

地吹雪の底からへその緒を探す

チューブから絞り出す今日の絶叫

病院の廊下で羽交い締めにあう

レントゲン室からもれる砂の音

実感を基にした情念の句、ということでは決して好みではないのですが、ここまで言い切られると「言いたい事を書く、感じた事を書く」という次元を超えている気がします。言い尽くすことを徹底してゆくと、どえらい風景にまで辿りつくものだなと感心、というか圧倒されます。行きつくしたところにある、広い意味でのユーモアもあり、三句目、四句目などは正直いうと、初読で笑ってしまいました。が、後々戻ってきて、腹に重くたまる。情念(感情)も生の感覚に支えられて説得力をもつものだなと、最後の句の感覚の冴えなどで得心しました。


『広瀬ちえみ集』から、

冷たくなった馬にホイッスルを吹く

さあ立ってごらん背中は縫い終えた

目の縁に夜が密集して生える

ニワトリの声で電話に出てしまう

誰なのよ森の出口を縫ったのは


同じく情念を基にしたスタイルと感じますが、櫟田さんの句よりは冷静な印象。メタファー(隠喩)によって、ひとつの状況ではなく、生活について全体的にいだく違和感を表出している。冷静な印象はこのメタファーへの迂回によって、読みの多様性が生まれているところから来ていると思います。一句目、読者は、冷たい馬の立場からもホイッスルを吹く人物の立場からも読むことができる。「終えた」「~しまう」など、何かが起こってしまった、やってしまったという事後の感覚によって、世界との関係において常にこちらが遅れてしまうことが見事にとらえています。


『松永千秋集』になると、「情念」という言葉がそぐわない印象。

秋はわずかに手足に棘の残りたる        松永千秋

さくらさくらこの世は眠くなるところ

出っ張りがあって妖精になれぬ

ホームドラマみんな優しく嘔吐する

われわれはホーレン草で武装する


「手足に棘の残」っているという感覚は、生についての違和感のメタファー的表出という意味で広瀬さんの句と共通していますが、「秋」という季節が設定されることで世界の側に重心が預けられている。上のお二方では、哀しみにしろ悪意にしろ感情が生なかたちで提出されてあくまで自己が中心に設定されていましたが、松永さんの句は「みんな」「われわれ」というふうに一人称複数に視点の設定を広げて、世界のなかにある個人の位置を探っているように読めます。一般的なものを一度引き受けたあとで表現として自律しようとする、この辺りに前のお二方より現在の詩を感じます。

さて最後に、『畑美樹集』。

こんにちはと水の輪をわたされる      畑美樹

食卓にBを並べて舐めている

つながって穴を見ているわたしたち

体内の水を揺らさず立ちあがる

食卓の高さで続くころしあい

前にもこのブログで書いた気がしますが、畑さんの句は一種、現代川柳の極北というふうに私は受け取っています。ここにあげた句、またこの句集に収められた句の数々は鋭い感覚や発見に満ちているのですが、それが「私」や「私たち」からはどこか切り離された、浮遊している言葉として示されている。描かれているのは日常的な場面であり、最後の句のように社会批判的メッセージとしても読めるものがあったりするのに、社会性というものが独特のかたちで捨象されているように思うのです。一人称にしろ二・三人称にしろ、究極的には他との関係があって成り立っている。対して、畑さんの句を読んでいると自と他の関係が溶解して、句が示している感覚や気づきを自分のなかに無意識にセットされる感じがします。俳句で行われるイメージによる詩的仮構とも違うし、川柳ジャンルでしかありえない発展の気がしますが、同時に社会的なものへの意識をひとつのカギにしてきた古典・近代川柳とはまったく違った視点でもあります。まあ、いちばん謎なのは、何でこんな句が書けるのか?ってことなんですが(笑)。

と、4者それぞれに個性的な表現です。
いちおう、櫟田礼文さんから畑美樹さんまで、と
自分なりに順番を決めてみたのですが、どうでしょう?
社会性や自己意識の面において、
段階的な違い(よしあしではないです!)を見てとることができそうです。
抽象して言葉にするのはむずかしいですが・・・。
また、ちゃんと書けそうでしたら書きたいと思います。
でも、自分の感覚に正直に、という面で、
櫟田さんと畑さんが意外に似て見えてきたりして・・・?

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