見出し画像

しんでれら

 この作品は2021年4月頃に書いたものです。時代設定は2020年夏をご想像ください。



しんでれら


 足早に大都会のネオン街を歩く。近付いて来る夏の陽気が色濃く残る、現在の時刻は夜の九時前だ。
 大学を卒業し、今年で二十五歳になるのだが、童顔のせいで、よく十代に間違えられる。マスクをしていると余計に幼く見えるらしく、派手な髪色のキャッチが、物珍し気な顔を向けてくる。
「ここ、新宿の街でクラスターが発生しています。不要不急の外出を控え、各店舗の経営者には、適切な感染予防対策と時短営業を、お願い申し上げます」
 区の職員がマイクを持ち、街頭に立っている。その傍でホストやキャバ嬢と思しき格好の人々が、抗議の声を上げていた。そのせいで狭くはない道なのに、通り抜けられなくなっている。
「もうこれ以上休業は無理だ!」
「暮らしていけなくなる!」
「十万円の支給じゃ足りないよ!」
 この世界で生きていけない人はどうするんだ。
 叔父の姿を頭に浮かべ、そう抗議に参加しそうになるのを堪えた。

 父親の兄にあたる叔父は同性愛者、いわゆるゲイだ。
 高校生の頃に同じクラスの親友にカミングアウトしたところ、勝手にアウティングされ、学校に行けなくなったと、叔父は以前話してくれた。
 不登校の理由を親に説明できないまま月日が経ち、高校を中退して二十五歳になった叔父は、ネットで知り合ったゲイに連れられ、初めてゲイバーに足を踏み入れたらしい。
「居心地が良かった、良すぎたんだよね。ママも店子も、そこにいたお客さん全員が、僕と同じなんだもん。隠す必要なんかない、隠さなくていい、ここでは思ったまま喋ればいいって、ママに頭を撫でられた時思いっきり泣いちゃって。高校生の頃、同級生にエロ本見せられて、この女のでかい胸、興奮するよなって話を振られて、うん、そうだねって流されて答えたのを思い出して、その時泣きながら、女の胸なんざ毛ほどの興味もねえわって叫んだんだよ」
 酔っぱらった叔父は必ずこの話をする。この時から十数年経つ今でも、涙ぐみながら。
 オレはゲイじゃない。バイでもない、掃いて捨てるほどいるノンケの一人だ。だから叔父のことは完全に理解できないが、認め、受け入れたいと思う。いつまでも成長しない小さな背中を。勘当した祖父母、父親の代わりに。

 気が付けば駅前の華やかさとは無縁の謙遜が遠のいていた。建物の間を、酔いつぶれて寝ている人を避けながら歩き、ようやく辿り着いた雑居ビル。その二階の廊下の奥に、叔父が経営しているゲイバーがある。オレはそこで週二日だけ店子として勤めている。
 店の看板は出ていない、各SNSの宣伝アカウントやホームページもない。それでも連日、大勢の客が来るのは、様々な人にとって、ここが居心地の良い場所だからだ。
 いやに足音の響く中階段を上がり、両側に出ているスナックや居酒屋の看板を見ながら廊下を歩く。ここまでくると、もう息がしにくい。
 重い漆黒で塗り固められたドアの前に立つ。このドアからは、ノンケお断りの雰囲気を感じる。
一見さんは、大抵この重苦しいドアを前に帰ってしまう。叔父曰く「重い雰囲気の方が、冷やかしの客が入りにくいだろう」とのことだ。
 そんなので客はちゃんと来てくれるのかと心配になったが、開店当初は、以前叔父が務めたゲイバーのママや店子さん、そこで知り合った常連さんなどが来てくれた。それから狭いコミュニティの中で、店の評判が口コミで広がり、様々な人が訪れるようになった。
 ドアハンドルを掴み、力を込めて押した。途端に酒やタバコの匂いが鼻をつく。
「おはようございます」
 顔を伏せ、挨拶をしながら店に入る。
「おはよう、時間ぎりぎりだね。また警察に捕まったの?」
 カウンターにいた叔父が、時計を見ながら言った。
「ハヤトくんは童顔やからねえ」
 叔父の向かい側のカウンター席に座っている、関西出身の常連客が笑う。ハヤトはオレの名前で、本名じゃない。
「幼い顔の子、可愛いから好きやで」
「はいはい。うちの店子に手を出したら許さないよ」
 叔父も笑いながら、その常連の前に氷水を置いた。
「今日は警察に捕まってないです。でも区役所職員の演説と、それに反対する人たちに巻き込まれたというか」
 途端に、狭い店の空気が冷めた。
「第一波の休業要請はなんとか乗り越えられたけど、二回目は、絶対うちも無理だよ」
 寂しそうな声音が響く。その叔父の声に、ボックス席から抗議の声が飛んだ。
「ここが無くなったら、俺らもう行く場所がないんだ! 高級シャンパンでもなんでも入れるから、絶対店だけは潰さないで!」
「そうは言っても。歌舞伎町や二丁目から離れたここ、テナント代が安いって言っても、普通のとこと比べたら全然高いし、業務用冷蔵庫の電気代だって何十万とする」
「じゃ、じゃあ半分持つから」
「あんたの会社、先月潰れたって言ってたじゃない」
 彼と一緒に飲みに来ていた、ニューハーフの客が声をあげる。
「退職金もロクにないでしょうに、まず自分の家族をどうにかしなさい」
「で、でも」
 薄暗い照明の店内で、男性客の顔はよく見えない。それでも必死に、クモの糸に縋りつき、千切れかけているのを修復しようと頑張っているのが伝わってくる。
「……オレの給料、しばらくいらないんで」
「ハヤト」
 叔父の鋭い声が飛ぶ。
「ママとは家族だし。昼間に別の仕事もしてるから、小遣いだって言って、月五千円くらいくれたら充分だよ」
 そう言うと、ボックス席の方が騒ぎ出した。
「ハヤト神じゃん! 一生ついていきます!」
「ママ、ハヤトにもお酒あげて! 俺の奢りで!」
「あたしはボトル入れる!」
 既に酔いの回っている彼らの中には、歌いだす者もいた。みんなが笑って幸せでいてくれると嬉しいと感じる。
「ハヤトは出勤前だから、後でね」
「ママ、俺にもお酒」
「あなたは飲み過ぎだ」
 叔父が客のグラスを取り上げた。
「酷いなあ。んじゃあ最近の愚痴、聞いてや。この間取引先の重役と飲みに行ってんけどな、しつこいくらい奥さん自慢してきよって」
 早口の大阪弁で、客が捲し立てる。みんながみんな、女性を娶ると思っているらしい重役に吐き気を覚えた。オレがその場にいたらそいつを殴ってる。
「それはしんどいね。でもそこ、前にレインボー企業だって言ってなかった?」
「そんなもん、口だけや。分かってくれんのはここのママだけや」
 客が上体をカウンターに伏せた。叔父が肩を叩いて慰めている。
「それじゃオレ、用意してくるんで」
 酒の匂いが渦巻く騒ぎの中を横切り、事務所に入る。特に制服などないので、用意と言っても、貴重品を鍵付きロッカーに入れるだけだ。
 数分で用意を済ませ、姿見を覗く。ごく平均的な若い男の姿が映っている。長い前髪とマスクのせいで、顔が見えにくいが、明るい色味の服を合わせているから、決して暗くは見えない。
「今日も頑張るぞ」
 叔父が笑っていられるように。
 気合い十分にカウンターに出て、店内を見渡す。
 他の店がどのくらいの規模なのか分からないが、叔父の店は大分こじんまりしていると思う。
 カウンターは五席、ボックス席は四席分のみ。カウンター席にいた関西出身の客が帰っただけで、ボックス席の客は全員残っていた。
「ハヤトくんだ。ママ、出したげて」
「はいはい」
 肩を竦め、叔父がグラスを差し出した。それを受け取り、一気に口に含む。リキュールのソーダ割りらしい。舌先に残るピリピリした感触が邪魔をする。
 大分薄めてくれているとはいえ、出勤二分でお酒を飲まされるのはきつい。しかもコール付きと相まって、体が変に錯覚してしまう。恥ずかしさで体温が上がるのに、全身に巡る高い度数のアルコールのせいだと。
「うう……頭がくらくらする」
 空になったグラスをテーブルに叩きつければ、ボックス席から歓喜の声が溢れた。
「大丈夫か?」
 横から叔父が氷水をくれた。それも一気に飲み干し、大丈夫、と答えた。丁度その時、一人の長身の男性が入ってきた。初めて見る人だ。叔父も初めまして、と声をかけ、カウンター席を勧めた。
 比較的明るいカウンター席に男が座って、初めて気付いた。
 高そうな皴ひとつない白色のスーツに黒色のワイシャツ、開いた胸元にネクタイは無く、代わりに重そうな純金のネックレスが光っている。金色よりの明るい茶髪に、大きく縁どられた茶色の瞳、鮮やかな色をのせた薄い瞼に、主張の激しいラインが浮かぶ。目の下だけが不自然な肌の色だが、それにすぐには気が付けないほどの目力がある。
 職業はホストです、と言われても驚かない風貌の男だ。マスクのせいで顔はよく見えないけれど。きっと歌舞伎町のどこかのクラブで、ライトとコールを浴び、華々しくシャンパンを浴びるのが似合いそうな感じ。
「お酒は何にしますか?」
 ゲイバーだと店を構えながらも、レズやバイ、ノンケなど様々な客を受け入れてきた叔父は、普段通りその男性にも声をかけた。
「ハヤトちゃん、あたしもお酒欲しいわ」
 ボックス席にいたニューハーフの客がカウンターに来て言った。
「はい、何にします?」
「ハヤトちゃんのお任せで」
「かしこまりました」
 そう言って小さく頭を下げると、客ははしゃいだ声をあげた。
 後ろの棚からウィスキーとホワイトラムとレモンのボトルを手に取る。それらを適量ずつシェイカーに入れ、腕を振る。カシャカシャと小気味良い音が店内に響き渡った。
 ロングタンブラーにシェイクしたお酒を注ぎこみ、ソーダでグラスを満たす。細長いバースプーンを使って軽くステアし、差し出した。
「インペリアルフィズです。楽しい会話を、どうぞ」
 照明の光を浴び、透明感のある黄色のカクテルが輝く。つけまつげで重そうな大きな瞳が、その光を反射している。
「ここでは現実を忘れて、楽しんでください」
「あら、やだ。ふふ……惚れちゃいそう」
 カクテルを受け取り、大きく溜め息を吐いた。だが振り返った客は軽い足取りで、席に戻った。
「すごいね、彼」
 ふと、声が聞こえた。顔を向けると、先程のホストらしい男性と目が合った。マスクを外し、はっきりした色で飾られた唇が楽しそうに笑みを象っている。
「うちのハヤトですね。僕はカクテルが作れなくって、簡単なものしか出せなかったんですが、カクテルを作る練習をしたい、と頑張ってくれるので、助かってますよ」
 叔父が彼の前に付き出しと、ハイボールを出しながら答える。
「へえ。やっぱボクもさ、カクテルが良いな」
「え」
 潰れた声が叔父の口から漏れ出た。
「ごめん、ハイボールは彼にあげて……あ、でも、マスクを外した人間の前に置かれた飲み物、口を付けていないとはいえ、抵抗あるかな?」
「いえ、別に」
 無下にするのも悪いかと思い、咄嗟に答えた。すると男は小さく噴き出した。
「あはっ、好きだなあ」
「え」
 これまで酔っ払った客に冗談で告白されたことはある。だけどこんなに、真剣な瞳で告白されたことは無い。
「冗談だよ。ふふ、可愛いね」
 なんだか遊ばれている気分だ。
「リクエストはありますか?」
 男から視線を外して問いかける。
「じゃあ、シンデレラで。今日は酔いたい気分だから、出来る限りアルコールを入れてね」
「え、でもシンデレラはノンアルコール」
「さすが。詳しいね。ベースにウィスキーを入れて、アレンジしてみて。美味しくなくても文句は言わないから」
「まあ、はい」
「お願いね。僕に魔法をかけて、なんてね」
 黙って腰を折って頭を下げる。様になってるね、という軽い声が頭上に降り注ぐ。
 言われた通りウィスキーを手に取り、オレンジジュース、パイナップルジュース、レモンジュースの瓶と並べて置く。いつの間にか入店していた常連の女性客にお酒を用意している叔父が、心配そうな視線を投げてくる。
 さっと洗って水分を拭き取ったシェイカーに、それぞれのジュースを注ぎ入れる。利き手を下に置いた方が振りやすい。顔の右側でシェイカーを構え、手首のスナップをきかせ、腕全体でシェイクする。耳元で鳴るカシャカシャと言う音が、オレは好きだ。
 決して混ざり合うことのなかった別々のものが、溶け合って混ざり合ってひとつになって原型を失くす。あっけなく。不自然に。いとも簡単に。
 腕を止め、カクテルグラスを棚から取り出す。ともすれば脆く弱々しくも見える、丈夫で小さな逆三角形のグラスに、シェイカーからオレンジ色の液体を注ぎ込む。酸っぱい柑橘系の匂いが、鼻孔に触れる。
 グラス三分の一まで注ぎ、残りをウィスキーで満たす。ステアはしない。
 意図せずグラデーション状に仕上がったお酒は、見た目だけなら女性が好みそうだ。もう少し、ジュースの量を調整すれば、店に出せるかもしれないな、なんて考え、男にグラスを差し出した。
 工程をずっと見ていた男は、笑っているような泣いているような苦しんでいるような、曖昧な顔を浮かべた。
「すごいな、期待以上だ。これで僕は、僕を偽れる」
 そう独りごちる男の文句が引っ掛かる。
「あ、あの」
 グラスを掴み、口をつけようとした男に、無意識のうちに話しかけていた。
「何か悩みがあるなら、オレで良ければ、聞きますよ」
 男の目が瞬く。
「もしかして、さっき僕が『好きだ』とか言ったから、絆された?」
「いえ! そういうことじゃ」
「じゃあ、何? 一晩、僕のことを慰めてくれるの?」
 グラスを静かにテーブルに戻した男は、急激に熱の冷めた暗い目を、真っ直ぐ向けてくる。
「えっと……オレ、辛そうにしてる人を見るのが嫌なんです。初めて会って話した人でも、街で一瞬すれ違っただけの人でも、昔喧嘩した人でも、これから先、笑って過ごしてほしい」
「エゴじゃないの? 楽しみたくっても楽しめない人だっている。それを君は、無理矢理笑っていてほしいと?」
「無理に、は嫌ですね。昔そうやって、壊れかけた人を知っているので」
 視界の隅に叔父が映る。高校に行けなくなった頃、家族も含む他の人の視線が気になり、家から五分のところにあるコンビニにすら行けなくなったのだそうだ。それでも家族に大丈夫だと言い張り、病院に行くのをためらった。そのうち一日中寝てばかりで、段々食が細くなり、生きているのか死んでいるのか分からない状態になったと。
 そんな叔父を救ったのが、本名も知らないゲイだった。オレもその人のように、壊れかけている人を救いたい。
「話すだけで楽になるじゃないですか。なので」
「……君、マジでバカでしょ」
 男は乱雑にグラスを掴むと、一気にぐいっと飲み干した。
 ウィスキーが喉に刺さるはずなのに。柔らかいジュースは下に沈んでいるのに。男はけろっとしている。
「君、もしかしてノンケ? 異性愛者でしょ?」
「え」
「やっぱり。そっとしておいてほしい僕たちの心情が、どおりで読めないわけだ」
 どういうことですか、と聞き返す前に、男がその質問の答えをくれた。
「異性愛者に同性を好きになってしまった、なんて相談しても分かってくれないでしょ? 気味悪がって冷やかして笑い者にして、それならこちらから触れないし、向こうから触れてほしくない。傷を癒してくれるのは、共感して寄り添ってくれる、同じ同性愛者の人だけなんだよ」
 暗い目が、誰もいない右隣の席を捉えた。かつてそこにいた誰かを思い出しているような、そんな目つきだった。
 不意に、お代わり、と言って男がグラスを押し返す。
 黙って受け取り、新しいグラスを用意して、同じようにシンデレラを作った。頭が真っ白になって、こんなにも自分が無力に感じたことが無くて、上手くシェイク出来なかった。
 不格好なカクテルを差し出すと、男は小さく笑った。毒を吐き出すように、挑むように、壁を作るように。
「異性愛者に同性愛者は救えない。僕らを生き地獄から救い出せない。百年かかったって、一千年経ったって、世界が同性愛を良しとしない限り、絶対」
 静かに言って、男がグラスに指を回す。
 視界の端っこで叔父が、こちらに背を向けている。
「うん、でも君の作るシンデレラは最高だよ。ちちんぷい、なんつって」
 弾けるような明るい笑顔で、細長い指を中で振りながら呪文を唱えた。なんだか泣きそうになった。
「オレは、今まで」
「無神経な言葉が、心を軽くすることもある。それは、忘れないでほしいな」
 オレの声を遮って、優しい声音で男が言う。だけど耳が男の言葉を受け入れるのを拒否してしまった。



 客が全員帰った後、オレはひとり、カウンターにいた。叔父は事務所で売り上げの計算をしている。
 お酒やジュースの瓶を拭き、棚に戻す。無意識のうちに、シンデレラに使ったジュースの瓶だけを最後に残していた。
 叔父はまだ、こちらに戻ってくる気配は無い。
 少しだけロングタンブラーに三種類のジュースを注ぎ込んだ。濃いオレンジと、薄い黄色が混ざりきることなく、不規則で無秩序な模様を描いている。
「いただきます」
 魔法にかけて。
 小さく呟いて、薄暗い店内に向かってグラスを傾ける。そして一気に喉に流し込んだ。
 オレンジのまったりした舌触りと、パイナップルの甘酸っぱさと、レモンの目が覚めるような酸味が、交互に口内を襲う。それくらいしか分からなかったけれど。
「……変な味」
 飲み切ることが出来ず、しんでれらを流しに捨てた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?