旅行/空
ひとり旅行が好きだ。
リュックサックひとつで家を出、電車に乗って、町を離れる。新幹線に乗って県を離れたら、僕は自由だ。
青柳家の長女であることを忘れられる。価値観の古くさい、頭の固い祖父母や父親の存在を忘れられる。
行き先なんて、どこでもいい。趣味はひとり旅行だ、カメラだ、ということにして周りを騙し、ただの旅行客の男になることが目的なのだから。
ホテルで、こっそりネットショッピングで買い集め、こっそり持って来た男性物の衣服を身に付け、鬱陶しい胸の膨らみをナベシャツで押し殺し、長い髪を潰してショートのウィッグの中に押し込み、帽子を被れば、パッと見は女性に見えない。低くは無い身長だけは、親の遺伝子に感謝しなくてはならないと思う。
その格好で胸を張り、私のことを知らない人しかいない土地を歩く。それが、言い表せないほど楽しい。
大股で歩き、暑くなって脱いだ上着を肩にかけて持ってみても、誰も、何も文句を言わない。
観光地である植物園に立ち寄り、一通りカメラで季節の花々を収めた。帰って家族に見せる為だけに撮る写真の、シャッターがひどく重い。ベンチに腰掛けていた時。
「――お兄ちゃん」
ひとりの子どもが話しかけて来た。
「なにみてるの?」
「空、を見てるだけ」
そう言うと怪訝な表情になった。男の見た目のくせに、男の声では無いからだろう。そう思ったが。
「そら?」
と言って首を捻った。他に見るものがあるのに、と言いたげな顔だ。
地元の子どもだろうか。ここの植物園の隣には、家族連れで賑わう公園がある。そこから、その子の名前を叫ぶ母親の声が聞こえてきた。
名前を呼ばれて、慌ててあそこの黄色い花が良いよ、とカメラを指さして教えてくれた。
「ありがと。後で撮りに行く」
「んーん!」
照れくさそうに笑って、公園に向かって駆けて行った。小学校に上がるか上がらないかくらいの、純粋なあの年頃が、一番楽しかった思い出がある。
曇天に目を向け、今この空は僕だけのものだ、と強く思う。
この瞬間、庭に洗濯物を干しに出た母親が空を見上げていたって、同じ空を見ているわけじゃない。
日本は広い。空は繋がってひとつだが、見上げている人が隣同士、ということにはなれない。
ふと、それが寂しいな、と思った。
ひとりが好きで、一人になりたくて、この先も独りだと分かっているのに。
「……撮りに行くか」
安物のカメラを手に、教えてもらった黄色い花に、足を向けた。
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