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澄み渡る空の下に、君はもういない。

 岡野辰樹の自室のベッドの下から、遺書が一通出てきた。それは、昨年末に自殺した三歳年上の幼馴染みで同じ同性愛者の、中本直弥の遺書だった。
 岡野辰樹は、遺書に書かれていた「恋人の長谷川貴春に会いに行ってほしい」という願いを叶えるため、地元高知県から神奈川県に向かう。
 岡野辰樹と長谷川貴春は、お互いの中本直弥との思い出話を通じ、追憶にふける。
「一緒に生きようゆうたんは、おまんやぞ!」
 同性愛者をテーマに書いた短編小説。






 いつも、ふと思い出す幼馴染みの顔は、困ったような笑顔だった。
 元からアンニュイな雰囲気を纏う、派手とは縁遠い男だった。だけど、昔はもっと表情豊かだった気がする。気は長い方だが人並みに怒るし、大口を開けて笑うことも、声をあげて泣くこともあった。それが、今では思い出せない。
 いつから感情が死んでいるのか、と考えて、地元の高知県を出て行ってからだ、と思い至った。見送りに行った高知空港では、はしゃいで、キャリーケースごと転倒していたのを覚えている。
 向こうで、なにがあった?
 そんなことを、二人で並んで歩きながら考えていた。
 隣を歩く幼馴染みの直弥は、六年間関東で暮らし、昨年末、帰って来た。中途半端な時期に、いきなり帰ってくることになった経緯を、俺は聞かされていない。
 あてもなく歩いていると、様々なことが脳内に浮かんでは、消える。思考が止まらない。気になって仕方がない。いくら考えたって、答えは出ないし、本人は横にいる。
 埒が明かん、と、思い切って隣を歩く直弥に聞くことにした。
「にゃあ」
 同じ目線で前を向く顔を見た。今日もどこか、その横顔は憂いを帯びている。
「ん。どういた、辰希」
 整った顔がこちらを向く。それに、ストレートな疑問をぶつけた。
「おまん、いつから泣かんくなった?」
「は?」
 二人の間を、夏の乾いた風が通り抜けていく。
「昔はぎっちり(いつも)泣いとったやろうち思うてな」
「ええ、そう?」
 方言訛りの消えた綺麗な言葉で、眉尻を下げて笑う。
「高校を留年して、おばさんに怒られまくってピーピー泣いとったやいか」
「え! なんで知ってるの!」
「窓が開いとったんや、こっち側のな。丸聞こえやったき」
 家が隣ってこういう時嫌なんや、と呟いた。耳まで真っ赤になっている。
 恥ずかしがる顔は珍しい。面白く思って笑いながら眺めていると、ふと、こいつはこんなに大人らしい男やったか、と思った。
 頬の丸みは消え、日焼けし、荒れていた肌は白く、潤っている。服から見える首や腕は、筋肉がついて、細くは無い。齢相当の、男だ。
 俺の覚えているあのいたずらっ気のある青年の面影は、どこにも見えない。
 三歳しか違わんくせに、置いて行かれたような気持になった。
「……にゃあ、東京にはええ男は多かったか」
 周りの畑に人の姿が無いのを確認し、低い声で囁いた。
「……付き合っちょったよ」
 直弥も素早く視線をやり、同じように低い声で返した。
「まっことか!」
「ちょ、声がでかい」
「今は誰もおらんきに、平気やろう。なあ、どんなやつやった」
 僅かに頬に赤みがさす。
「……僕には、もったいなさすぎるくらい、えい人やった」
 寂しそうに言う直弥の脇腹に、一発拳を叩き込んだ。
「いた!」
「フラれたんか?」
「え?」
「相手の男にフラれたんか、ち聞いちょる」
「えっと……」
 困ったような笑顔を浮かべている。逡巡した後、溜息と共に、重そうな口を開いた。
「フラれていない。フッてもないちや」
「なら、なんでもんて(帰って)来たが?」
「……帰ってきたくなかったよ……」
 気が付けば、人気の一切無い山の麓まで来ていた。大樹の陰になった道中で、直弥がしゃがみ込みながら、そう言った。
「帰らされたんや。僕が彼とホテル街にいるんを、見ちょったやつがおった。そいつが僕の親にゆうて、父親が神奈川のアパートまで来て……帰らされた」
 セミの声がうるさい。その中でも、苦しそうで、泣きそうに震えた直弥の声が、はっきりと耳に響いた。
「……そんだけか」
 ぽつり、と口から転げ落ちた言葉が、震えている。
「なんでたかがそればあで、帰らすんや。おかしいやろ!」
「ねえ、辰希にはええ人おるんか」
 汗ばんだ腕の中から、右目が見上げてくる。冷えたその瞳に、込み上げた怒りが静まっていく。
「……いや、おらん」
「その方が良いと思うよ。ここでは、何を言われるか分からんきね」
 そう言うと、何事も無かったようにすっと立ち上がった。
「おまん、それ、どういうことや」
 掌を空に向けて体を伸ばす背中に声を投げた。腹の奥からまた、ふつふつと何かがせり上がってくる。
「もんて来てから様子がおかしいんと、なんぞ関係あるんか。おまんは、誰に何をゆわれたんや。……どういて、黙ったままなんや」
 悲しい。悔しい。抑えきれない怒りと共に、ぐちゃぐちゃの感情に支配されていく心地がした。
「辰希」
 冷たくて、哀しくなる声音が名前を呼んだ。
 肩越しに振り返った左頬に、一筋の涙が伝い、落ちていく。
「僕のこと……辰希だけは、忘れんで」
「……あ、当たり前や! 何ぬかしちゅう……」
 不意に、直弥の身体が透けて見えた。瞬きをすると、またはっきりとした身体に戻っていた。
 心臓が鷲掴みされたように、ぎゅうっと痛んだ。
「にゃあ。おまんは、どこにもいかんよな?」
 答えは返って来なかった。
 直弥はいつもの困ったような笑顔で、ただ静かに佇んでいた。







ーーーーーーーーーーーーーー


 狭い会場内に、低音の読経が響いている。現実感が無く、その声が遠い。
 年の暮れの十二月。直弥が死んだ。
 あの夏の日、直弥はどんな表情で、忘れないで、と言ったのだったか。焼香の時も、そのことが頭の片隅にちらついていた。
 読経の声が止み、僅かに僧侶の衣擦れの音がした。半ば伏せていた顔を上げ、ちらりと花祭壇に目を向ける。輝くばかりに白い花に囲まれて、写真の中の直弥は笑っていた。いつも通りの笑顔で、ああ、本当にこの人が死んだんだな、と痛感した。
 喪主である直弥の父が挨拶と、この後の流れの説明があった。お斎を行なってから、出棺、火葬すると言う。参列者は揃って、食事の用意がされた別室に通された。
 直弥の学生時代の友人はほとんどいない。直弥の姉の姿も見えない。
 友人のほとんどが高知に残っていないのだろう、としか考えていなかったのだが、少し離れたところから聞こえてきた親族の会話で、そうじゃないらしいと知れた。
「渡辺さんも、関わりたくないからって、香典すら送らないってゆうちょったわ」
「ああ、東京で見よった子? そりゃあ嫌よのう」
「あの噂って本当なが? 直弥くんが、その、ゲイだって」
「まっことよお。あん子が高校生くらいの時からゆわれてたやない」
「えー! うちの孫、直弥くんと同い年なんやけど」
「でもでも、東京で変な男に騙されてただけなんでしょう?」
「かわいそうにのう。帰って来てから、ほとんど引きこもってたと」
「きっと本当は、そんな子じゃないのよ。同級生に好みの女の子がいなかっただけやない?」
「だから、お姉さんも来ちょらんの?」
「いや、お姉さんは産後の肥立ちが悪いんやって」
「彼女がおらんかったからってだけでねえ、高校生の頃からそんな噂流されちゃ、誰だって地元を出て行きたくなるよ」
 そこまで話した時、席を外していた喪主が戻ってきたため、親族らの会話は途絶えた。
 ああ、そうか。そうやったんか。
 あいつが心の赴くまま泣くことも、怒ることも出来なくなったのは、この村の人間達のせいがか。
 俺にくらい、話してくれても良かったのに。ゲイセクシュアル同士、もっと頼ってほしかった。
 家が隣で、保育園から高校まで一緒だったくせに。
 変なところでおまんは、年上やき、と壁を作っちょったなあ。
 箸を握る震えた手に、熱い液体が落ちた。口内の豆料理に塩味が広がっていく。
 自分が泣いていることに気付いたのは、隣に座っている参列者に、ハンカチを差し出された時だ。呂律の回らない声で礼を言い、目頭を押さえる。
 なんで、なにも言わんかったがじゃ。なんで、独りで死んでった。
 棺の中、白い花に首を隠された直弥の遺体を思い出し、溢れる涙が止まらなかった。






✿✿✿✿

 高校生だったある初夏の朝。普段通りに教室に着いた途端、何人ものクラスメイト達に囲まれた。みんな興奮し、早口で捲し立てるため、一切聞き取れない。
「なんなんや! 朝からほたえな(騒ぐな)!」
 クラスメイト達に負けないよう声を張り上げると、教室の隅にいた男子生徒が、答えるように叫んだ。
「中本先輩、ゲイなんやって!」
 ほとんど喋ったことの無いその男子が何を言っているのか、すぐには理解出来なかった。
「……中本? って、直弥か?」
 げい? げいってなんやったか。
 あ、ほうか。同性愛者のことやった。んで……誰が? 直弥が? ……あいつも?
 頭の中がぐちゃぐちゃで、でも何も考えられないくらい真っ白になった。
 目の前にいる同級生たちの悲鳴にも似た雑音が、耳障りだ。
「やかましい!」
 すぐ右にいた男子生徒にリュックを投げつけ、その勢いのまま体を捻って、廊下に走り出た。同じ階の他クラスの生徒にぶつかるのも構わず、三年生のいる別館に向かって、全速力で駆けた。
 途中の渡り廊下から、ちょうど校門を通って来た直弥の姿が見えた。朝のハイテンションな空気に絡まれた多数の生徒達の中で、ただ一人、俯いて歩いている。
 窓を開け、呼びかけようと足を止めた時。
 ――中本先輩、ゲイなんやって!
 男子生徒の声が、忌々しい響きを伴って耳朶に蘇る。それがきっかけだったかのように、胸を刺されたような痛みと、何もかもを破壊して回りたい衝動が体内を巡る。
 それらをぐっと堪え、廊下を踏みしめて、再び走り出す。
 階段を降りた先の下足室で、直弥を捉えた。
「なぉっ、やあ!」
 思いっきり名前を叫んだ。喉が裂けそうなくらい。呼ばれて、顔を上げたその左頬に、昨日は無かった湿布が貼られている。
「辰希?」
 目を丸くして佇む、その薄い胸に飛び込んだ。周りから悲鳴が上がる。
「えっ、ちょ、辰希!?」
 半ば体当たりのようだったのに、直弥はたたらを踏んで、耐えた。とっさに制カバンを放り投げ、同じようにしっかりと抱きとめてくれている。
「ど、どういた!?」
「そん怪我はなんや」
 肩に顔を埋め、詰問するような尖った声を出した。
「ああ、これ」
 沈んだ声が耳に届く。それきり、直弥は口を噤んだ。
 俺らのすぐ側を、きゃあきゃあと言いながら、女子生徒達が歩き去って行った。その足音が遠くなるのを待って、それにな、と言葉を絞り出した。体の奥から、抑えきれないナニかが込み上げてくる。思わず、細い肩を抱く腕に力が入ってしまう。
「それにな、それに……」
 言葉が続けられない。ぐっと歯を食いしばり、息を吸う。
「なんでおまんがゲイやちゆわれとるんや……!」
 一息で、吐き出した。言ってしまった。
 ああ、これでこの世界は崩れ落ち、無くなってしまう。そんなゾッとするような感覚が背筋を這う。
 息を吸い、吐き出した途端に涙が溢れ出した。
「どういてそれを?」
 淡々と直弥が訊ねる。
「さっき、クラスのやつらがいいよった」
「そう」
 一切の感情を乗せず、そう吐いた息が耳にかかった。
 奥歯が軋むほど歯を食いしばり、泣き声を殺す。優しい手が、頭に乗せられた。
「なあ、辰希。今、怒っちょるん? 悲しいん? それとも、怖い?」
「怖いわけなが!」
 ばっと顔を上げる。目の前に、青白い直弥の顔があった。
「良かった」
 強張った微笑みが浮かんだ。その時、空気を切り裂くようなチャイムが鳴り始めた。目を合わせているのが気恥ずかしく、再び細い肩に顔を埋める。音が止むと、耳が痛くなるような静寂が訪れた。
「辰希」
 静寂を破って直弥が口を開く。
「ごめん。本当のことやき」
 触れ合っている胸から、全身に冷たいものが広がっていく心地がした。
「……ゲイ、なん?」
 もう頭の上にも、背中にも直弥の手は無い。
 自分のこの両腕を離したら、直弥はどこか行ってしまうんやないか、と思い、両手を固く握り締めた。
「うん」
「……ほうか」
 締め付けていた腕から力が抜ける。
「あ、でも、嫌わんで……ち、難しいかもしれんけど……僕は、今まで一度も辰希のことを、ほがな目で見たことは、無いきに」
「ほうか」
「辰希。その手を離しとうせ。ゲイに触れるん、辰希も嫌やろう……」
 消えそうな声になにも答えないでいると、辰希、と濡れた声で名前を呼ばれた。
「離してや。辰希」
「にゃあ。いつや。いつ、それに気付いたんや」
「……中学ん時」
「ほうか」
 苦しそうな声に努めて淡々と返す。やけんど、もう我慢の限界や。
 掴んでいた両手を離し、体を剥がして、肩を掴んで向き合う。泣きそうな直弥の顔は、瞬く間に驚きの表情へと変わった。
「……どういて、笑っちょるん」
「んっふ……ふは、あははははは!」
 吹き出し、盛大に笑う。その不安を吹き飛ばしてやる勢いで。
「な、なんで笑うがよ!」
 青白かった顔は一転、今度は耳まで赤く染め上げている。
「すまんちや、怒らんで」
 笑い過ぎてお腹が痛い。
「いや、怒っては、ないけんども!」
「や、だってな、俺も同じやき」
「……は?」
 目を丸くしている。口から落ちた間抜けな声に、また噴き出してしまった。
「お、俺もゲイなんちや」
 笑いながら話すから、軽い酸欠で頭がくらくらしてきた。
「……まっことがか?」
「こがな時に嘘つかんき」
 けっと口端を歪めて笑ってやる。
 今度は、直弥から抱きついてきた。ぎゅうっと締め付けてくる腕が小刻みに震えている。
「おーの……。にゃあ、言葉にならんぜよ。そうか、辰希もか」
 耳にかかる声は明るく、どこか嬉しそうだ。細い背中に腕を回し、叩いた。
「やき、俺にはなんでも言っとうせ。相談相手くらいには、なっちゃるきに」
「うん、ありがとう。辰希も、僕になんでも話して。一緒に生きような。苦しかったろ、辰希も」
「ううん。なんちゃあない」
 大切なものを扱うように、優しく、それでいて力強く抱きしめられているのが、こんなに心地良いなんて知らなかった。
「これからも一緒や。なあ、辰希」
 噛みしめるように何度も、一緒や、一緒や、と繰り返している。笑みを含めたその声が、僅かに湿っていた。
「にゃあ、一緒に生きようって、プロポーズみたいやの」
 茶化すように含み笑いを浮かべながらそう言った。
「あ、ごめん。僕、辰希はタイプやない」
「すまんな。俺も直弥はタイプじゃないき」
 お互い真面目くさって断り、どちらからともなく体を離す。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった酷い顔を見合い、小さく笑った。

✿✿✿✿





 ベッドの下から遺書が出てきた。
 細いボールペンで【遺書】と大きく書かれ、その左下にはやや小さく【岡野 辰希 宛】とある。無理に角張った字を意識して書いたような、そんな稚拙な文字だった。裏を返すと【辰希以外読むの禁止!】と、いつも通りの崩れた文字で書かれてある。
 薄々そんな気はしていたが、見慣れた字で、これは、中本直弥の遺書だと確信した。
 昨年末に自殺した直弥の遺書が、なぜ俺の部屋のベッドの下に、いつ、隠されたのか。
 記憶を辿れば最後に直弥がうちに遊びに来たのは、まだ夕方の日差しがきつい九月末か十月上旬頃のことだった。半年近くも前になる。直弥はその頃から自殺する気でいたのか。その日も変わらない沈んだ様子で、酒を飲み、夜更けまでここにいたのに。一緒に吞みながら、頭の片隅では死ぬことを考えていたのか。そう思うと、胸が締め付けられる苦しさを覚えた。
 爪先で接着面を浮かし、血の気の引いた指先で引っ掛けて封を開ける。開け方は汚いが、読めれば良いだろう。
 恐る恐る開いた遺書の冒頭には、こう書かれていた。
【九月二十一日。
 辰希がこの遺書を見つけるのはいつになるだろう。と思って日付けを書いてみた。掃除嫌いの辰希のことだから、もしかしたら、僕が死んで半年後か。いや、一年後に見つかるかもしれないな。】
「おい」
 掃除嫌いなのは認めるが、一年も掃除しないなんてことはないき、と言い返しそうになった。最後に掃除したのは、いつか分からないけれど。
 まあ、と気を取り直して遺書に向かう。
【まず、辰希にはちゃんと話しておかなくてはいけないことがある。僕が、死を選んだ理由について。
 地元の高校に通っていた頃から同性愛者かもしれない、と周りに噂されていたから、僕が悪く言われることには慣れていたし、嘘じゃないから別に構わなかった。自分自身でも、こういう風に生まれついたから悪いんだ、と思っていたから。当たり前のことを言われているだけだ、と。
 だけど貴春さんのことを悪く言われるのだけは、耐えられなかった。貴春さんは何も悪くない。一目惚れしたのは僕の方だ。貴春さんに告白したのは僕だ。同級生の渡辺に見られたあの日、ホテルに誘ったのは僕なんだ。なのに貴春さんを悪く言う血の繋がった人間達を、僕は死んでも恨み続けるだろう。】
 葬式でのひと場面しか知らないが、酷い言われようだった。俺に向けられた言葉じゃないと分かっていても、聞いている者の心も押し殺すような、そんな心地がしたくらいだ。それを毎日言われ続けると考えると、吐き気がする。
【あの人たちには何を言っても変わらない。中本直弥という人間を間違えて捉えている。中本直弥は、男性が好きなんだ】
 この辺りは字が乱れていた。苦しそうな直弥の声が蘇る。
【僕は、みんなが思っているような男じゃない。僕のことなんて誰も理解してくれない。】
 筆圧が薄い。弱くも強い言葉に、衝撃を受けた。
 俺のことも、そう思っちょったんか?
 ゲイ同士、安心して、色々と打ち明けちょったんは、俺だけやったのか。
 うちの居酒屋の新しい学生バイトがタイプで困る、ち話をした時も、おまんは心ん中では、そがなことを思っちょったがか?
 悔しさと悲しさと、本人にぶつけられない怒りで、目の前が霞む。目尻に熱が溜まる。
【辰希に全部話すのが怖かったんだ。辰希は優しいから、きっと僕以上に怒ってくれるから。なおやくん、と幼い頃から慕ってくれている年下の幼馴染みの、負担になるようなことはしたくなかった。ごめんなさい。】
「……べこのがあ(ばかたれ)!」
 悲鳴に近い、声が自然と漏れ出た。
 遺書から目を離し、背を向ける。ぐずぐずになった顔をティッシュで拭う。涙と鼻水とが溢れ出てきて止まらない。ゴミ箱の中が真っ白になった頃に、ようやく落ち着いた。
 さて、と再び遺書に向き合う。日を開けたのか、新しいボールペンを使っているのか、丁度ここから、目に見えて文字が濃くなった。
【辰希にお願いがある。自分勝手、ワガママだと思うけど、お願いだ、これだけは叶えてほしい。
 神奈川に行って、僕の恋人だった長谷川貴春に合ってほしい。そして、僕のことを伝えてほしいんだ。
 高知に帰らされた時、スマホから連絡先を消されてしまったから、僕から貴春さんに連絡する手段は無いんだ。電話番号もうろ覚えだし。だけど唯一はっきりと覚えている貴春さんの家の場所を書いておくから、これを頼りにしてほしい。】
 便箋代わりのレポート用紙の他に、コピー用紙が一枚同封されていた。そこには神奈川の横浜駅から長谷川貴春が住むというマンションまでの行き方が、簡潔に書かれている。
「……微妙に分からん」
 バスの道筋の途中が〜の二本線で省略されているのが、どこか大雑把だった直弥らしい。
「おーの。どいて俺が、こがな……」
 最後の一枚は長谷川貴春宛てらしく、【貴春さんへ】と一文目に書かれている。それに目を通す気は、無い。すぐに足元に置いた。
 何気なく自分宛ての最後のレポート用紙の裏を返すと、右下の角に、小さく【ごめん】と書いてあった。
「……何を謝っちゅう。おまんは悪うない。しょうまっこと頑張った。最期の願い、俺が叶えたろうやいか」
 元あったようにレポート用紙を畳み、封筒に入れた。居酒屋の店主である母親への、シフト調整のお願いの文句を考えながら。そしてスマホで、高知空港から羽田空港までの料金を調べ始めたのだ。






✿✿✿

「ありがとっざしたあ」
 六連勤最終日の七時間目ともなると、十代でも感じる疲労感は辛いものがある。タバコを買って行った客に声を出して送れただけでも褒めてほしい。本当はもう、声を出すのさえも辛い。だれた(疲れた)。今すぐ帰ってベッドにダイブしたい。
 あと一時間やき。それで、ワンオペのコンビニバイトが終わる。明日は日曜日で一日中寝ていられるが、明後日から通常通り学校が始まる。そして火曜日から四連勤が待っていた。先週終わったばかりの春休みが恋しい。
 やめや、やめ。ほがなこと考えんな。心の中で自分の頬を叩き、喝を入れる。
 さて、レジ横の総菜の準備でもしてくるか、と誰もいない店内に背を向けた瞬間、自動ドアが開いた。軽快な入退店音が耳障りだ。舌打ちしたいのを堪え、らっしゃっせえ、と声を投げた。
「辰希、お疲れ様。……こじゃんと(ものすごく)疲れた顔しとるね。まだ六時ぜよ」
 まじまじと人の顔を見て、直弥が心配半分の笑顔を見せた。
「邪魔しに来たんか? しゃんしゃん(さっさと)いぬれ(帰れ)」
「買い物くらいさせてえや。朝に飲む牛乳をきらしちゃって」
 入り口横の買い物カゴを、ひとつ取りながら言う。
「道向こうのスーパーの方が安いやろ」
「コンビニ店員がそんなことゆうてええんか?」
「えいえい」
 その返答にくすりと笑って、レジに背を向けた。
「牛乳の他にもなんか買って帰ろうかな。お菓子とか、ジュースとか」
「そんなんも、スーパーのが格安やぞ。今日セール日やち、母さんがゆうとった」
「コンビニ店員がそがなことゆわんでよ」
 ころころ笑って、商品棚に姿を消した。
「ほんなら、俺は奥で惣菜の用意しちょるき、レジまで来たら声かけえ」
「はあい」
 奥のドリンクの棚から、手を振って応える細い腕が見えた。
 揚げ物のバッター液を作り、規定サイズの肉を入れる。混ぜ合わせている時、直弥が俺を呼んだ。
「お待たせしましたあ」
「あ、店員さんや」
「店員さんやで」
 カゴの中の商品をひとつひとつ取り出し、レジのスキャナーでバーコードを読み取っていく。
「九十八円がいってえん」
「疲れてる店員さんや」
「眠い店員さんやで」
 お互い、あほなこと言ってる。この距離感が、空気感が、一番心地いい。
 直弥が、大阪に行けるんやない? と言ったのを無視した。なんでそうなるがじゃ。
「四百八十二円がいってーん」
 カウンターにカゴの中にあった商品を全部出し切り、合計金額を告げる。直弥がお金を用意している間、レジ下から袋を出して商品を入れていく。パックの牛乳に、スナック菓子、プリン、アイス。一人分の季節限定フルーツのカップケーキを手に取った時。
「あ、それ、辰希に」
「ん? ケーキか?」
「そ。疲れちょるからさ。甘いものでも食べて、元気出しとうせ。にゃ?」
 聖人オーラが体中から溢れ出ている。
「……プリンがえい」
「え!」
「俺甘い物苦手やき。プリンがえい」
 袋から無難な黄色いプリンを出し、カップケーキを代わりに入れる。
「ええよ、ええよ。……あれ? 前に移動販売車のクレープ、生クリーム増量してもろうて食べてなかった?」
 探るような視線を向けられ、耳に熱が集まった。
「じゅ、十五過ぎてから胃が弱いんや!」
「僕十八やけんど、そんなことないきに! 辰希、なんか病気しとるんじゃなか?」
「なんちゃあない! ほれ、さっさと手の中の千円札よこしい!」
「待っとうせ! ポイントカードあります!」
 バタバタと会計を済ませる。レシートを文鎮の代わりに小銭を置く、という密かな嫌がらせをしてみたものの、直弥は気にも留めない様子だ。器用に二つ折り財布に小銭を滑り込ませている。嫌がらせに失敗し、少し虚しくなっただけで終わった。
「というか、コンビニバイトせんでも、家の居酒屋を手伝えばええんやないか?」
 ふと、直弥が訊ねる。
「タバコの匂いが苦手なんや」
「ああ、ちっくと分かる」
 袋に手をかけ、ドアに向かう。
「プリン、食べとうせ。お疲れ様」
「ん。ありがとお」
 軽快な入退店音と共に自動ドアが開き、肌寒い外に直弥は出て行った。手を振って見送り、事務所に入る。自分のカバンに貰ったプリンを押し込んだ。
「五百円もするケーキを受け取れるわけないろ。べこ」
 俺のような幼馴染みには、百円のプリンで充分や。
 うっかり気を抜いていると、入退店音が聞こえた。やまった(しまった)。
「らっしゃっせえ!」
「うわ! びっくりしたあ」
 慌てて飛び出したから、レジ横の揚げ物を見ていた客を驚かせてしまった。
「あ、すんません」
 あと一時間、プリンを楽しみに、頑張るかぁ。

✿✿✿





 コンビニバイトのシフトを代わってくれた学生バイトくんに感謝しつつ、高知を発った。居酒屋店主である母親からは、東京の地酒と引き換えに、と交渉が成立した。ダブルワークゆえの面倒さはあったものの、フリーターのフットワークは、それなりに軽い。
 羽田空港に降り立って、まず驚いたのは人の多さと、タクシーの台数と、バスの時刻表の本数だった。
 第三ターミナル駅って、どこや。
 日本のはずなのに、耳に入るのはどこの国かも分からない外国語ばかりだ。見た目で日本人だと思い、声をかけたら韓国人観光客だったことで、人を頼るのはやめた。恥ずい。
 大幅に時間をロスしながらも、なんとか目的のターミナル駅へと辿り着いた。最初から観光案内所に声をかければ良かった。思えば、一人で高知県を出るのは、これが初めてだ。
 俺がしっかりせにゃあ。
 意気込んで切符を買い、電車に乗り込む。端の座席に座った途端、安心してしまい、一つ目の駅に着くよりも前に、眠りに落ちてしまった。




 夢を見た。
 目の前に、小学生の頃の直弥がいる。
 お気に入りだった龍のTシャツを着ていた。夏の間、毎日のように着ていたものだ。懐かしい思い出が鮮明に蘇る。ハーフパンツから覗く膝小僧に、でっかい絆創膏を貼っているのも、懐かしい。
 そうそう、よく転んでたな、と。肌はこんがりと日焼けしていて、筋肉はなく、見た目にももっちりしていて、まるでコッペパンみたいだ。
「たっちゃん! 今日はドッジボールせんか!」
 直弥が声を張り上げた。それに、どこからか自分の幼い声が答える。
「ええよ! なおやくん。今日は負けへんきにな!」
 小学生の直弥が、俺に向かって走って来る。俺はどうしてか体が動かせず、ぶつかる! と思った時には、直弥は俺の身体をすり抜けていた。軽い足音が、遠ざかって行く。それが完全に消えた頃、目の前にすうっと、中学校の制服を着た直弥が現れた。無駄な脂肪はなく、制服の上からでも体が引き締まっているのが分かる。卓球部員なのに、ほどよく日焼けもしている、ザ健康優良児だ。
 明るく活発そうな見た目に似合わず、幼さの残る端正な顔に、苦悶の表情が浮かんでいる。
「……ごめん、サナちゃん。……付き合えない」
 女子生徒の告白を断ったのだろう。声変わり前の、いくらか高い声が重々しい響きを伴っている。苦虫を嚙み潰したように、口端が歪んでいる。
 誰が、直弥にこんな顔をさせているんだ。戻れるなら、この時の直弥を抱き締めてやりたい。どうして俺は、直弥より三年も遅く、生まれたのか。
 中学生の直弥の周りに、徐々に黒い霧が集まってくる。その霧の中から、老若男女の囁き声がする。それは、霧が広がるにつれ、大きく、はっきりとしたものになっていった。直弥が耳を塞ぎ、しゃがみ込んだ。霧に飲み込まれ、直弥の輪郭がぼやける。霧の中の声に、聞き覚えのある声もあった。
「あの噂って本当なが? 直弥くんが、その、ゲイだって」
「でもでも、東京で変な男に騙されてただけなんでしょう」
「きっと本当は、そんな子じゃないのよ」
 葬式の際、耳にした親族の会話だ。
「頭おかしいんやないんか! 男のくせに!」
「何のために上京させたと思ってるんだ! 親不孝者!」
「ゲイなんやって? 気持ち悪い」
 聞いたことのない罵声も響く。
 的確に急所を抉る刃のような、そんな、剥き出しの悪意ばかり。
 やめんか! 直弥を傷付けるな! 何も悪くない! 何も、悪いことなんてしちょらんやないか……!
 そう叫び、真っ黒い塊になった霧の中から、直弥を引きずり出してやりたい。けれど、相変わらず体は動かない。
「ごめん。本当のことやき」
 霧の中から、低い直弥の声がした。
「……ゲイ、なん。ほんまにか」
 今と変わらない自分の声もする。
「あ、でも、嫌わんで……ち、難しいかもしれんけど……僕は、今まで一度も辰希のことを、ほがな目で見たことは、無いきに」
「ほうか」
「辰希。その手を離しとうせ。ゲイに触れるん、辰希も嫌やろう……。辰希。……離してや。辰希」
 ああ、これは、高校生のあの日か。朝の下足室で。初めて、お互いにゲイだとカミングアウトした、夏の日。
「にゃあ。いつや。いつ、それに気付いたんや」
「……中学ん時」
「ほうか」
「……どういて、笑っちょるん」
「んっふ……ふは、あははははは!」
 高校生の自分の盛大な笑い声が、霧を吹き飛ばした。こちらからは俺の背中と、肩越しの直弥の顔が見える。
「や、だってな、俺も同じやき」
「……は?」
「俺もゲイなんちゃ」
「……まっことがか?」
「こがな時に嘘つかんき」
「おーの……。にゃあ、言葉にならんぜよ。そうか、辰希もか」
「やき、俺にはなんでも言っとうせ。相談相手くらいには、なっちゃるきに」
「うん。ありがとう。辰希も、僕にはなんでも話して。一緒に生きような。苦しかったろ、辰希も。これからも一緒や」
 直弥がそう言った瞬間、二人の足元から濃い霧がどっと噴き上げた。あっという間に二人を包み込み、そして、空間に消えた。
 直弥。直弥はどこや。
 よく転んで怪我をして、その度に泣く泣き虫で、いたずらっ子で、大雑把で、しっかり者に見えてどこか抜けていて。人のことを考えて行動するくせに自分のことは全部後回しで。誰にも、本心を打ち明けない直弥は、どこに行った――
 目の前の、真っ白いだけの空間が、歪んでいく。
 直弥、直弥! 俺にはなんでも話せ、ゆうたがや! 一緒に生きようゆうたんは、おまんやぞ!
 ……にゃあ。どういて。黙って勝手に、死によったんや。




 気が付くと、次の停車駅は横浜駅だと告げるアナウンスが鳴り響いていた。手摺に頭を持たせかけて眠っていて、都会人に迷惑をかけんで良かった、ち思う。
 電車が止まり、ドアが開く。大量の人波に揉まれながら駅を出た。流石に外まで出ると、揉みくちゃにされるほどの人口密度ではない。それでも、目が回るほど人は多いが。
 まずはホテルにチェックインするのが先やな。
 予約確定メールを開き、そこからURLをタップして、地図アプリを起動した。自動的に現在地からホテルまでのルートが表示されている。文明の利器に感謝しながら、リュックを背負い直し、歩き出した。





✿✿

 友人と一緒の、埼玉の国立大学に進学する。真冬の寒い夕暮れに、電話越しに、そう報告された。
「……おーの。良かったの」
「その友人は今年、先に入学しちょるんやけんど」
 受話器越しに、カカカ、と珍しい笑い声が耳に届く。
「出席日数が足りんくて留年した男のブラックジョークに、どう反応したらえいがじゃ」
「わろうてくれたらええよ」
「ぐははは!」
「悪役みたいやにゃあ」
「おまんがゆうたんやぞ!」
 後ろから、やかましい(うるさい)! と、母親の叱責が飛んできた。
「まあ、合格おめでとう、やの」
 一度息を深く吸い、直弥を祝う。
「うん。これも毎朝辰希が起こしてくれたおかげぜよ」
 嬉しそうに言う。だから、努めて同じくらいの熱量で祝い返してやる。上手く、祝えているだろうか。電話越しに、気付かれていないだろうか。
 この、もやもやした、形容しがたい胸の気持ち悪さが。
 一緒におるちゆうたのに、たった何ヶ月か前に。
 寂しさとは違う。裏切られたショック、とも違う。と思う。ただ、心の底からは祝ってやることが出来ない。
 それを敏感に察知されてしまったのか。
「辰希も埼玉にこんか?」
 と、誘ってきた。
「無理や。頭が足りん」
「ほがなこと無いち思うで」
 分かってる。認めたくないだけで、頭の片隅では、理解している。直弥は、ここが生き辛いのだ。だから、高知を出、世界の最先端に近い埼玉に行こうとしているのだろう。そして、俺もここの生き地獄から救い出そうと思っているのだろう。
 出れるもんなら、出たい。けれどそう思うのは、なんもない田舎に見切りをつけただけで、直弥のような生き辛さは感じていない。それが、大きな一歩を踏み出しかねる理由だ。
「ちゅうか、俺まだ高一やぞ。去年高校受験終わったばっかやき、あと丸一年はなあんも考えとうない」
「それはちょっと遅うないか……?」
 壁に頭をもたせかける。溜め息交じりの声が、耳を撫でた気がした。
「そうや、辰希。彼女が出来たんやって?」
 声を抑えて直弥が言う。
「うん。告白されて、まあ、性格はえい子やき、OKした」
「……ほにほに」
 何か言いたそうな声が沈んでいく。
「騙したわけやなか。ちゃあんと伝えちゅう。俺は、好きやと思うてないけんど、それでもええんか、て。それに、これはただのカモフラージュや。十代のうちに周りにバレるがは、この先の一生の生き方が大きく変わってまうやろう、ち思うてな。高校を卒業したら、自由にするつもりや。……あ」
 高校内に留まらず、村中から後ろ指を指されている直弥に、こんなこと言ってはいけなかった。
 それにすぐに気付いたが、一度唇を離れた言葉は、もう飲み込めない。
「……辰希は賢いにゃあ。僕も告白された時、そう言えば良かった」
 何事もないように、すぐに明るい声が返って来た。それに返事が浮かばす、数秒間、黙ってしまった。
「辰希?」
「ん? ああ、電波が悪いみたいや。家電も古いき」
 雑な言い訳を並べる。コードレスで、そこまで古いということはない。
「ほうか。あ、そういや僕の受験が終わってから貸してくれるゆうてたマンガ、明日借りてもええか?」
「分かった。ほんなら放課後、俺んく(家)きい。準備しとく」
 最後にまた、おめでとう、受験お疲れ様、と直弥を労い、通話を切った。
「直弥、上京するんやと。埼玉の国公立受かった、ゆう電話やった」
「ふうん」
 台所で、居酒屋のオープンに向けた料理の下準備をしている母親の背中に声をかけた。今は魚を捌いているのか、一切目を離すことなく、まな板の魚に包丁を通していく。
「あん子は、向こう行った方がえい子じゃろ」
「どういて、母ちゃんはそう思うん?」
 予想の付かない返答に、緊張しつつも、そう訊ねずにはいられなかった。
「ゲイなんやろ? 東京にはそういう人らが集まる地域……なんやったか、二丁目? があるんやろ。こんな田舎より、同じ人らのおるコミュニティの方が絶対えい」
「そっか」
 直弥に批判的なものじゃないことに、安心感を覚えた。ほっと息をついた瞬間。
「あんたは、ちゃうよねえ?」
 魚から目を離し、肩越しにこちらを見て言った。ぱっちりとした大きな両目がぎょろりと、魚のような感情の読めない目に見えた。
「え?」
「あんたは、直弥くんとはちゃうよね? 女の子が好きなんよね?」
「……な、なにを言いゆうがか! 可愛い彼女も出来たとこなんやぞ」
 探るような目を、じっと見つめ返した。逸らしてしまっては、認めてしまうことになりそうで。
 怖かった。
 たった一秒か、二秒か。それくらいの瞬きの間が、ひどく長いものに感じた。
「やんな!」
 大声と共に、ぱっと顔面をほころばせた。そして再び、まな板の魚に視線を落とした。
「あんたは直弥くんとちゃうもんね。彼女おる子が、男好きなわけないわえ」
「……そ、そうや、そうそう」
 背中に冷たい汗をかいている。
「先に言うけど。入学祝いに買ってあげたスマホ、それでAVなんか見たあかんで。ぜえんぶ、バレるきね」
「み、見ん!」
「照れちゅう。まだまだガキやのう」
 わざと足音荒く、自室に閉じこもった。見るわけない。興味の無いものなんか。

✿✿





 緊張して、痛いくらいの鼓動が耳の中で響いている。ホテルを出ると、それも気にならないくらい、雑踏の方がやかましかったけど。
 迷いながらも辿り着いた、長谷川貴春が住むらしいマンションを見上げる。まだ新築なのか、白っぽい外壁が太陽光を反射させて、少し眩しい。
「……都会は夢があるにゃあ」
 思わず、そう独り言ちていた。
 十階以上ある高層マンションをぼけっと眺めているうちに、自分が平日のど昼間に訪問していることを思い出した。正規雇用の会社員は基本、この時間は働いている。部屋まで尋ねて行っても不在だろう。
 完全に失念していた。
 僅かな羞恥心に、自分がフリーターだということと、実家が自営業の居酒屋だから、と言い訳を投げつけた。
 来た道を戻り、コンビニに入った。安心する軽快な入退店音に迎えられる。便箋と封筒と、ボールペンを買った。レジ店員に「切手は必要ですか?」と聞かれたのに、手を振って応えた。ここで耳に入る日本語は、当たり前にほとんどが標準語で、自分の強い訛りが恥ずかしく思えてきていたからだ。
 ホテルに戻り、サイドテーブルに便箋を広げる。
【長谷川貴春様】
 と書き始めた手紙の冒頭で自分の素性を明かした。次いで、直弥のことについて伝えたいことがある、出来れば会って話したいが、電話でも構わない、と続けた。自分の携帯の番号を書き、今日から三日間は神奈川駅近くのホテルに滞在しているから、その間に連絡がほしい、と締めた。
 ぶっきらぼうな文章になっていないか。扱い慣れていない敬語の手紙は、何度目を通しても違和感しか覚えず、校正は早々に諦めた。
 再びホテルを出、マンションに向かう。昼休憩なのか、ちらほらとスーツの男女の姿が目に付いた。およそ一年前まで、直弥もこの光景のただなかにいたんだ。マンションが近付くにつれ、そんな感傷に胸が苦しくなった。
 マンションのエントランスに入り、遺書に書かれていた長谷川貴春の部屋番号のポストに手紙を滑り込ませた。どうか、明日にでも連絡がきますように。もぞもぞするような緊張感から早く解放されたかった。
「ほんなら、ラーメンでも食べに行くか」
 来る道中に、味のある暖簾のラーメン店を見つけていた。一時だけでも気を紛らわせようと、わざと小さく声に出した。





 意外にも、長谷川から電話が来たのは、陽が傾き始めた頃だった。想定よりも早い時間に、緊張感が増す。
「初めまして。長谷川貴春です」
 少し高い男性の声がスマホ越しに聞こえる。優しそうな声音だ。
「初めまして。岡野辰希です」
 俺今、直弥の元カレと電話しちゅう。そう意識した途端、スマホに触れる耳が熱くなった。
「今、どちらにいらっしゃいますか?」
 滑らかな標準語のイントネーションに、天上の存在の、大人の都会人を感じる。喉に言葉が貼り付いてしまって、話しにくさを覚えた。
「い、今ホテルにおり……います」
「では、近くの公園で今から会えませんか? 春には花見としても人気の観光スポットなので、検索してもらえると、すぐにルートが出ますよ」
 そう言って、公園の名前を口にした。出しっぱなしにしていた便箋の残りに、素早くボールペンを走らせる。
「分かりました。行きます」
「ありがとうございます。それでは、後ほど」
 通話を終了した。知らず知らずのうちに固まっていた肩を、ぐるぐると回してほぐす。数時間前、マンションに向かった時以上の緊張感に襲われている。
 だって俺は、長谷川貴春のことを、何も知らない。神奈川に住む直弥の元カレだったということ以外、何も知らない。
 決して軽くはない足取りでホテルを出た。途端、東京湾から吹く潮風に煽られた。湿っぽい匂いがする。いつか直弥の家と、家族ぐるみで行った海沿いの公園を思い出した。あの頃はまだお互い小学生で、こんまま、漠然と大人になってくんだなあ、なんて思ってた。
 近付く春の気配を感じさせる公園に着くと、広いその空間の中に、ちらほらと人がいた。
 犬の散歩をしている人、足早に歩くスーツ姿の人、ラフな格好の学生らしい二人組。大きな木の下のベンチでスーツ姿の男性がひとり、スマホを片手に座っていた。他に誰かを待っていそうな雰囲気の男性はいない。なら、あれが長谷川貴春なのか。
 とはいえ、いきなり声をかけるのはハードルが高い。ズボンのポケットからスマホを取り出し、着信履歴から長谷川に電話をかけた。コールが鳴り始めた時、ベンチの男がスマホを耳にあてた。それで、確信に変わる。
「はい。長谷川です」
「岡野です。公園に着きました」
 ベンチの男性が立ち上がり、辺りを見渡す。そして俺と目が合った。
「今、そこから電話してます?」
 控えめに振られた手に、会釈で返す。
「そっちに行きます」
 通話を切り、ベンチに向かって歩き出す。お互いの声が届く範囲まで近付いた時、長谷川が口を開いた。
「遠いところから来てくださって、ありがとうございます」
「いえ。こちらこそ、お時間つくっていただき、ありがとうございます」
 長谷川は、直弥とは違うタイプのイケメンだった。
 焦げ茶色の髪はくせっ毛なのか、緩く跳ねている。太い眉の下は大きく丸い目で、緩く上がった口角と相まって、可愛らしい印象を受ける。小柄でもあるが、グレーのスーツが似合うのだから不思議だ。本人の纏う、落ち着いた雰囲気のせいなのだろうか。
 この人が、直弥の彼氏だった人。
 直弥と二人で、並んでいるところが、見てみたかった。
「ここら辺は東京湾が近いので、肌寒くありませんか?」
「大丈夫です」
 勧められ、ベンチに腰を下ろした。だが長谷川は座ろうとはせず、傍らに置いていたカバンから、財布を取り出した。
「そこの自動販売機で飲み物を買ってきます。何が良いですか?」
「え! や、自分で買い行きますよ!」
 立ち上がろうとしたが、目の前に手のひらを突きつけられた。
「長旅で疲れたでしょう。わざわざ来てくれたのですから、奢らせてください」
「……では、お言葉に甘えさしてもらいます。ホットの加糖のコーヒーをお願いします」
 多分年上の人の圧には逆らえない。
「分かりました」
 ふわり、と慈しむような笑みを残し、背を向けた。薄暗くなっていく視界の中に、ぼんやりと光る自動販売機があった。
 優しそうな人で良かった。またもや無意識のうちに強張っていた肩の力を抜く。小柄な長谷川の背中を見つめながら、この人は、直弥とどのような時を過ごしたのだろう、と想いを巡らせた。
 楽しいときに笑えていたのか。
 悲しいときに泣けていたのか。
 悔しいときに怒れていたのか。
 長谷川は、それら全てを受け止め、許してくれる人だったのだろうか。
「岡野さん」
 名前を呼ばれ、ハッとした。少しぼうっとし過ぎたみたいだ。
「お疲れですか? 今日はもう帰って、明日また会いましょうか?」
 心配そうに長谷川が顔を覗き込んでくる。
「いえ、大丈夫です。少し考えごとを」
 差し出されたコーヒー缶を、礼を言って受け取る。指先に熱が伝わる。
 隣に座った長谷川は、ブラックコーヒー缶のプルタブを開けた。
「それで、お話とは?」
 明日の天気は? というような気軽さで、長谷川が問う。その気軽さに見合った話題を提供できないのが、悩ましい。
「えっと」
 真っ先に、直弥の自殺を告げなければいけない。長谷川宛の遺書を手渡すのも、それからだ。
「……その」
 言葉が続かない。喉にべったりと貼り付いて、剥がれ出てくれない。
 遠くから電車の音が聞こえた。それ以外は完全な沈黙に包まれている。全身を突き刺されているように、痛い。
 視界が狭まり、両手の中の缶しか見えない。
 自分から誘い出したくせに。腑抜け。根性無し。べこのがあ。
「……直くん、あ、中本くんは、元気?」
 遠くに視線を向け、何気ない口調で水を向けてくれた……つもりなのだろう。横目で俺を見ながら、喉をこくん、と鳴らし、コーヒーを飲んだ。
 気を遣うな、とその優し気な瞳が語っている。
 その問いに頷くことも、首を振ることも、出来ない。
「な、直弥、は」
「うん」
 長谷川の視線を感じる。待ってくれている。
 震える唇を開くと、涙が入り込んできた。それで、いつの間にか自分が泣いていたことに気が付いた。
 涙を拭うことなく、嗚咽と共に声を絞り出す。
「……死にました。直弥は、自殺したんです」
 口にした瞬間、時間が止まったかのように、木々の擦れる音や、電車の轟音が、消えた。
 顔をあげれない。長谷川が息をのんだのが分かった。
「いつ?」
「十二月の十日です」
「じゃあ……もうとっくに、四十九日も、終わってるね」
 淡々とした声が呟く。
「はい」
「そっかあ。直くんは、もうどこにもいないのか」
 ちらりと視線を送った。
 長谷川は真っ直ぐに前を見据え、静かに涙を零していた。その表情に、悲しみも、怒りも、なにも見えない。ただじっと耐え、目を背けたくなる事実を受け入れようとしている。
 その姿があまりにも美しく、涙が止まった。
 目元を袖で強く擦り、長谷川に向かう。
「嘘だって、思わないんですか?」
「うん。認めたくなかったけど、一月の末の頃に、直くんがお別れを言いに来てくれたんですよ。だから、やっぱりそうだったんだって思うだけ、で」
 端正な顔が歪む。必死に、溢れ出そうになる何かを堪えている。
「長谷川さんに、読んでほしいものがあるんです」
 そう切り出し、カバンの中から遺書を取り出した。とどめを刺すようで、気が引ける。ゆっくりと、遺書の最後の一枚、長谷川貴春宛てのレポート用紙を差し出した。
「俺の部屋から出てきたんです。直弥の遺書。これは、長谷川さんに」
 細い指が紙を受け取る。壊れ物のようにそっと開き、茶色の瞳が文字を追っていく。
「見つけたのは最近で……来るのが、遅うなって、すんません」
「あ、あああ……」
 大粒の涙を流し、抑えきれない声を漏らした。両手で遺書を胸に抱き、顔を伏せる。
 震える背中に、そっと手を伸ばした。痛々しいその姿につられて、一度は落ち着いたはずの涙がまた、大粒となって地面を濡らす。
 にゃあ、直弥。ここまで哭いてくれる人がおるなんて、おまんは日本一の幸せもんちや。
 何度も何度も、直弥の名前を呼びながら。
 二人で、慟哭した。






 卒業式の翌日に、直弥は高知空港にいた。チェックインカウンターに並ぶ前に、なんとか見つけられた。
「直弥! 待っとうせ!」
 喜んで声をかけたが、対して直弥は、沈んだ様子だ。
「見送りに来なくていいって、言ったやいか」
 大きなキャリーケースを引いた搭乗客達と、空港内アナウンスで、辺りは騒がしい。弱々しい直弥の声はかき消されてしまいそうだ。
「だって、なんもゆわんと大学、決めちょったき。俺も一個くらいゆうこと聞かんでも、バチは当たらんやろう思うて」
「……ごめんちや、なにもゆわんで」
 直弥の後ろを、指を絡め合った男女が横切って行った。嬉しそうに騒ぐ女の声に気付いた直弥も、視線を向ける。
「そがに、おまんにとってここは、生き辛いがか」
 何も答えない。ただ、遠ざかって行く男女の後ろ姿を見つめている。
「直弥」
「ん。ああ……辰希は、生き方が上手いよにゃあ、まっこと」
 泣きそうな顔でそう言うから、黙って抱きしめたくなった。
 そんなこと、ここでは出来ないけれど。
「……そがなこと、なが。ただ卑怯なだけや」
「なにちゃんやっけ? あの子のことは、大事にしたげてな」
「ゆわれんでも。普通の恋人になりきっちゃる……きに」
 自分で言った言葉に、背筋が冷たくなった。
「にゃあ、直弥。普通の恋人って、なんちや。俺らは、普通になられへんのか?」
「うん。そうだよ」
 チェックインカウンター前には、見送りに来た家族や、恋人と思われる男女の姿がある。複数人で同じ目的地に向かうグループもいる。その普通の中に、直弥は見えない。
「……のうが悪い(心地が悪い)!」
 目の前にいる独りの男が不憫で、哀れで。けれど、たかが学生の分際の自分では何も出来なくて、歯痒い。
「その答えが、東京で見つかればえいな、ち思うて、期待しちょるんよ」
 初めて、直弥は笑った。
 空港内の普通の光景の中に溶け込んで、自分だけが弾き出されたような気分だ。
「……おまんが行くがは、埼玉やろう」
「え! でも東京に近いし、電車一本で行ける距離やし、就職先は東京を考えちょるきに」
「……そ」
 地元が嫌で上京するなら、必然的に就職先は高知じゃない。少し考えればすぐに思い至ることなのに。薄々気付いてたことでもあるのに。
 改めて言葉にされると、ショックだった。
「もんてくる気は無いがか?」
「うん」
「ほうか」
 その時、直弥の搭乗する飛行機の、搭乗案内が放送された。
「あ、もう行かないと」
 そう言って、電光案内板に視線を向けた。
「おん。行ってこい」
 大きく右手を振りかぶって、中本の二の腕を狙う。ばちんっ。ガウンの上からだが、良い音が響いた。
「いっ、たあ!」
 涙目になっているのが面白くって、お腹を抱えて大声で笑った。周りの人々の視線が突き刺さる。
 知るか、普通の世間体なんか。
「辛気臭い顔するんやない! 何時間か後にはおまんも関東人や! こがなとこすっと忘れて、おまんがしたいことばあに全力を注ぐんやぞ!」
 すぐそばを通りかかった家族が微笑ましく笑っているのに気付いて、耳まで熱くなった。
「ありがとう。辰希」
 訛りのない、綺麗な言葉だった。
 寂しさの隙間に、満足感が埋まる。
「夜にはここに、紅葉型が出来てそうやにゃあ」
「しばらくはそれで俺んこと、思い出しとうせ」
「こがなもんが無くっても、思い出すよ、辰希のこと」
 顔を見合わせて、二人で小さく、笑い合った。
「ほいたらね、行ってくるぜよ」
「おん。体には気い付けや」
 二人の手が、宙で一度だけ、揺れる。
 それっきり直弥はキャリーケースを引いて、カウンター前に出来た列に向かった。その足取りは軽い。気持ちが溢れ出したのか、段々歩く速度が上がり、遂には駆け出した。だがその直後、キャリーケースに躓いて盛大に転んだ。派手な音が響く。
 噴き出して、笑いそうになるのを堪えた。息が詰まる。
 肩を震わせながら、すぐ側にいた老婦人に心配されている直弥に背を向けた。







「……落ち着きましたか?」
 黙って頷いた長谷川の背中を、さする手を止めた。
「すみません、恥ずかしいところを」
「いえ」
 周りから、人は消えていた。木々が擦れる音と、電車の音が響くほかは、俺らの話し声しかかしない。
 薄ぼんやりとした街灯の光が、俺らを包んでいる。もし、近くを通りかかった人がいたとして、不審者がいます、と通報されてなければいいけれど。
「あの、今は読めんかもですが、落ち着いた時にでも、全部読んだげてください」
 小さく頷き、そこに書かれている自分の名前を、そっと撫でた。
「こんなことを言うと、少し嫌かもしれませんが。ぼくにも、直くんが遺してくれたものがあって嬉しい」
 微かに染めた頬が笑う。
「想い出ごと、大事にしたってください。あいつ、結構寂しがり屋なんで」
「ふふ、うん。そうだったね」
 深い息をひとつ吐き出して、長谷川がこちらに向き直った。
「岡野さん」
「はい」
 何を言われるのかと、思わずこちらも身を固くした。
「君は……ぼくを、責めないんですか」
「どういて、そんなこと、いうんですか」
 苦しそうに言うから、胸の奥が刺されるような悲しみを覚えた。
「だってぼく達が出会わなければ。お互いにカミングアウトして、付き合ったりしなければ。直くんは今も、生きていたでしょう?」
「それは、長谷川さんのせいじゃない。直弥が、自分で選んで、進んできた道なんです。後悔しないように、自由にって、直弥が自分に嘘をつかないで生きた結果なんです。長谷川さんひとりが背負って……長谷川さんのせいにして、直弥の……あいつの生きた人生を、否定するようなこと、せんでください……!」
 涙がぼろぼろと溢れ落ちる。
 悲しくて、哀しくて、でも、今更もうどうしようもなくて。
 時間が巻き戻せたら、と思ったことは何度もある。
 もっと早くに遺書を見つけられていたら。直弥の自殺を、止められたのに。
「ごめん。ぼくが悪かった。ごめんなさい、泣かないで」
「すみません、俺の方こそ。生意気、言いました」
「ううん。岡野さんの言う通りです。ありがとうございます。気付かせてくれて」
 服の袖で目元を強く擦り、笑いかける。
「遺書だけでなく、直弥のお気に入りのぬいぐるみでも、持って来ちょったら良かったですね」
 そう言うと、長谷川は噴き出して笑った。
「直くんが!? ぬいぐるみ!」
 げらげらと腹を抱え、膝を叩いて笑っている。室内なら笑い転げていただろう。
「そがですよ。ちなみに、ピンク色のうさぎの、ふわふわのぬいぐるみです」
「ぴんく!」
 上擦った声で復唱した。
「直弥、かわいい物が好きやったんです。でも厳しい家だったので、風邪引いた末の姉の為にUFOキャッチャーで動物のぬいぐるみを狙ったら、たまたま二個取れた、とか言い訳してました。姉の分はすぐ取れたのに、自分の分は全然取れんくて。お年玉のほとんどを注ぎ込んだ、ちゆうてました。中学ん頃ですけど」
「そっかあ……」
 長谷川は、深く息を吐いた。
 努めて明るく喋ったはずなのに、俺らの周りにはまだ、しんみりした空気が漂う。
「岡野さんは、直くんのことが好きだったんですね」
「え?」
「顔に書いてますよ。やだなあ、無自覚なの」
 顔が一気に赤くなる。
「や、やめとうせ! それ、直弥の彼氏からどういう感情で受け止めればえいとですか!」
「別に恋愛感情の好きだとは言ってませんよ。友愛だな、と思って」
 遊ばれた。完全に弄ばれた気分だ。
「……確かに、大事な友達でしたよ。同じゲイで、お互いにしか話せないことも、多かったですし」
 とっくに温くなったコーヒーを飲んだ。
「ねえ。お酒飲めます? どっか店に入りませんか」
 長谷川に誘われ、少しも迷うことなく頷いた。
「良かった。もっと直くんのことを聞きたいんです。奢りますから、色々聞かせて下さい」
「いや。半分出させてください。そん代わり、俺もこっちに住んでた頃の直弥の話を聞きたいです」
「はい。もちろん」
 ふわりと笑む顔が、どことなく直弥に似ていた。だからか、まだもう少しだけ隣にいたい、と思ってしまっていた。







 思い出は多いのに。覚えていたいことは、もっと多いのに。
 まだまだ先があると思って、大事に大事に抱えてこなかった思い出たちが、ふと気が付いたらどこかに落っこちてしまっていた。
「直くんの笑い方が好きだったなあ。声を出して、笑う感じ、が」
 あれ? 直くんは、 どういう声をしていたっけ?
 でもまあ、いつか神奈川に帰ってくるだろう。その時にまた、直くんの隣で笑い合えたらいい。そう思っていた。
 けれど一ヶ月が過ぎても、半年が過ぎても、一年が過ぎても、直くんは帰って来なかった。
 いつ帰ってくるの、寂しいよ。既読すらつかないトーク画面に、何度も送った。
 直くんは、ぼくと比べてどのくらい背が高かっただろうか。
 直くんの手は、どれくらい暖かかっただろうか。
 直くんの作ってくれたご飯の味は、どうだっただろうか。
 毎日事ある毎に思い出すのに、思い出しきれなくなっていた。
 寂しかった。気が狂いそうだった。
 だけど。
「初めまして、岡野辰希です」
 高知から、直くんの幼馴染みの彼が尋ねて来てくれて、直くんと同じ言葉を話すから、忘れていたことまで思い出せた。
 彼はお酒に強いけど、直くんはお酒に弱かった。
 彼はタバコの匂いを嫌うけど、直くんはよくウィンストンを吸っていた。
 彼は豪快に笑うけど、直くんは口元を手で隠して笑うことの方が多かったなあ。
 向かい合って座る居酒屋の一角で、似ても似つかない彼に、直くんの面影を見出していた。
「……長谷川さん」
 突然、彼が話すのをやめた。
「うん? どうしたの」
 何も言わず、テーブルの端に置かれている紙ナプキンを差し出した。
 なんで、と訪ねる前に、熱い雫が、頬から滑り落ちて、手を濡らす。
「ありがとう。優しいんだね」
「ほがなこと。直弥の方が、よっぽど優しかったがですよ」
 中ジョッキを煽る、その顔を見つめた。
「ねえ。タメ口で、方言で喋ってくれませんか?」
「はあ。別にえいですけど……」
 独特なイントネーションで、応えてくれる。
 普段は標準語で喋ってた直くんも、酔っ払った時だけは、全く意味が通じないような方言を使っていた。
「直弥が大学の夏休みにもんてきた時、金髪にしちょったことがあって。金ちゅうか、白に近かった。あれには、げにまっこと驚いたぜよ」
 懐かしい言葉に、目を閉じる。
 今、すぐ傍に直くんがいる。戻って来てくれた。そんな気がした。
 ありがとう。彼を僕に会わせてくれて。








 ぽーん、と小気味良い音が空間に響く。格安航空、高知空港行きの飛行機内だ。
 丸い窓の外に目をやる。空港の建物越しに、どこまでも澄み渡る青空が見えている。
 確かに、ここに“中本直弥”が存在していたんだと知れて嬉しかった。まさかお酒が弱いくせに、居酒屋店員に覚えられるくらい通っていたなんて。大学生の頃に車の免許を取って、ドライブデートしていたとか。タバコを吸うようになっていたとか。地元では見せてくれなかった姿が知れて、良い旅だったと、心の底から思う。
 長谷川とは連絡先を交換した。直弥の親族に会わないようタイミングを見計らって、高知に招待したいからだ。今度は俺が、直弥と過ごした場所を案内したい。
 小学生の頃によく遊んだ公園から、通いつめていた駄菓子屋、通学路を歩くのも良い。緑に囲まれた、何も無い道だけれど、確かにここにも直弥はいた。
「まもなく、離陸いたします」
 アナウンスが響き、轟音と共に機体が走り出す。
 さよなら、神奈川。
 さよなら、直くん。
 なんてな、と心の中でくすりと笑う。地上の重力を振り払って、体が宙に浮いた。

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