リハビリテーション4

日によってコンディションに差があることはよくある。ここ最近はずっと腹痛だ。同じペットボトルを使い続けていてうまく洗えていなかったのだろう、多分これが原因だ。最近は日差しが強い。今日は何も、ということもあるが、それでも少しづつでもやることにした。

友人と話しているとだんだん良くなっているかのように感じる。彼と話していると自分がとても喋り上手なようにすら感じる。不思議と不安感がなくなる。

ここまでが下書きに書いた、2週間ほど前のことだ。あれから何が変わっただろうか。何か一つ自分の中で腑に落ちたこともあるし、腑に落ちたようでまだ奈落の底には程遠かった、ということもたくさんある。

一つ思ったのは結局どこに住んでも変わらないということだった。そしてどこに住んでも変わらないなら、あえて同じ場所に居続けることもない気がした。これは一つの大きな収穫で、予感めいたものでもあるが、自分は数年内には別の国にいる気がする。直感が当たったことはあまりないけど。

ただこれ以外はまだ奈落の底にいる。どうしようもない渇きと絶望感。今月一番楽しいことがあっても、その夜にはどん底にいる。幸いなことに精神状態の如何によらず作業をし続けられるので、仕事に大きな支障はないが、それでも日常生活にしわ寄せが来ていることは間違いない。何かを心の底から楽しむということがだんだんできるようになった気がしていたが、それも長くは続かなかった。こんなことの繰り返しなんだろう。

音をたくさん録音した。雨の音。人が道を歩く音。水生生物の鳴き声。スーパーでかかっている音楽。
久しぶりにライブで演奏をした。たくさんの人が踊っていた。この国の音楽の歴史をほんの少し知った。一瞬のきらめきだった。どん底の中の、時折差す月の光のように一瞬のことで、それが終わった後には底しれぬ闇。

これまで色んな人とあってきて、町を離れるたびに別れを繰り返してきた。その人達とまた会うことはもちろんあるのだけど、それでも一度物理的に離れている事実は大きい。今度は数ヶ月もしないうちにまたこの国を出るだろう。この国をでてまた別の国に行った時、僕は誰に出会うだろうか。その人達はどのような顔をしているだろうか。僕は彼らの記憶に残るだろうか。彼らは僕の記憶に残るだろうか。

どこに行っても楽しい。どこに行っても悲しい。どこに行っても寂しい。誰も人のことはコントロールできない。仮に僕がどこにも行かなかったとしても、誰かは僕から離れていくし、物理的な距離が近かったとしても離れていくことはある。
いつも思う。あの素敵な日々が、あそこまでわかりあえたと思った人たちが、過去になっていく。決して忘れたわけではないけれど、いなくなっていく。そして次の町がやってくる。次の人々がやってくる。変わる。同じであり続けることがない。変化に適応できない肉体はその感触だけを覚えている。しかしわすないことは変わらないことではない。記憶ですら変化していく。記憶には彩色がなされ、あるいは脱色され、別のプロットに柱が置き換わり、日々その形を変えていく。その感触も、肉の記憶も、僕は保持し続けることができない。ましてや他人に保持させることもできない。わかり会えない。不可能だ。わかり合うことはできない。わかりあえないから楽しいのはわかりあえるからなのだ。それを理解できていなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?