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1月のひびのきろくをみせるとこ

▼アイドルの歌詞を書いていて考えたこと


たとえば「傷つけられてもいい、やさしくなりたい」という歌詞を書いたとする。
アイドル自身によって歌われたそれは、「私は傷つけられてもいい、やさしくなりたい」という主体的意味にとられる可能性があり、その結果、ファンが「彼女を傷つけても許される」と勘違いする原因になりうる。しかしその反面、ファンがアイドルに感情移入して「ぼくもやさしくなりたい」と思う可能性もある。このふたつの可能性はわけることができない。さらに、アイドル自身が入り込みすぎてそれを自分の意見だと思う場合もある。誰かの書いた”私は”を、「私は」と言葉にするとき、それは容易にまざってしまう。
書かれた「私」はつねに交換可能性をはらんでいて、だからこそ共感の余地がある。かかれていない”私”を読み込むこともふくめて。


▼湾田さんのコマばっかり見ている変態が湾田さんについて語ります。

興味ない人は帰って。
こないだテレビで古市くんがオススメしたことでちょっと話題になった「ワンダンス」。いや、そこは『キッズファイヤー・ドットコム』だろ!? もしかして古市くん読んでないの!? 担当者さんいますぐ送ってください! 


……というのはおいといて、ワンダンス、俺もめっちゃ好きなんですよね。ダンスとかぜんぜん興味なかった勢なんですけど、ちょうどゲーセンで「ダンスラッシュスターダム」っていう最新のダンスゲーやってることもあって、なぜか俺の中で過去最大のダンスブームが来てるんです。まあ過去がないから最大って言っても公園でランニングマンやってるだけなんですが。捻挫するとプレイできなくなるのがこのゲームの弱点です。

(※01の踊れてなさがすごい)


とにかく湾田さんいいんだよなあ。人間がなにかに感動するときって、見えないパンチを食らったときとかに似てて、予測がズレてやってきたときにわきあがるんじゃないかという気がしているんですけど、ワンダンスだと、2巻の、とあるメンバーに「あなたが主役だよ」的なセリフを言うんだけど、彼女が謙遜して「いやいや、湾田さんが主役でしょう」って返したところ「わたしも主役」ってさらに返すんですよ。ここ、ふつうの読み手の頭の中は湾田さんの「あなたが主役だよ」に対して、謙遜か、あるいは彼女が本当にそう思っているんだろうなー、の二択になっているわけですが、それに対して、第三の答えを持ってくる。それを自然な形で発する。なんのてらいも感じさせないところが湾田さんの魅力なんですね。まずここで10億点入ります。1巻の段階でカンストしてるんで点数なんて無意味なんですけど。さらに、2巻の雨上がりのシーン、カボくんが雨が降っていないか手のひらを上に向けてたしかめていると、あとからきた湾田さんがその手を握る。ふたりは手をつないでそのまま歩く。で、ここ気づくんですよ。あれ? なんでこれ男のほうが俺じゃないんだろう? おかしいな。マグロ漁船で働かれているおっさんが死に際に見た夢くらいつらいな。でもそれでいいんだよな……だって、この漫画の主人公俺じゃないから……って。そんなふうに普通の読者はあれ? と思うわけです。そして次のページで湾田さんが「あっ」と気づいて赤くなる。カボくんに、手をつなごうという意図がなかったことが読者にはわかっているので、「湾田さんのジャージになりたい!湾田さんちの柔軟剤はダウニーな気がする!」ってなるわけです。人間椅子っていいですよね。生まれ変わったら湾田さんの家のスピーカーのネジになりたいです。ゆるんできてポロッてとれて湾田さんのドライバーでぐるぐる回されているときが人生のピークだとしてもそれでいい。これまた遅れて見えない角度からのパンチですね。さらにこの漫画の随所に実際の曲目がでてるんですけど、あとで聞いたらそれぞれの場面の空気感が再現されておわー湾田さん! ってなるんで湾田さんですよね。とにかくこのマンガを読んでるとあとからズレて感動することが多くて、俺の中で終わらない湾田さんのアフタービートが鳴り続けるんだよなー。湾田さんのコマを切ってコラージュにして貼りたいんですけど裁判に使われるとまずいんでこのへんにしときます。



▼小説には、部分を取り出すと違和感があるけど、全体として見るとそうあるべき一文がある。



去年読んだ小説のなかに、ふと考えさせられる一文があった。

 映画なんて、亮くんは最初から観ていなかったのだ。

なんとなくきれいな文法にすると(※)

 亮くんは最初から映画なんて、観ていなかったのだ。

となる。

でも、小説には、部分を取り出すと違和感があるけど、全体として見るとそうあるべき一文がある。

「亮くんは最初から映画なんて、観ていなかったのだ。」だと、人がメインになり、主人公が「亮くんは――観ていなかったのだ」を気にしているという印象になる。

それに比べると、「映画なんて、亮くんは最初から観ていなかったのだ。」「映画なんて――観ていなかったのだ」が強くなる。

同じ映画を観ているのにすれちがっていることの虚無感。「なんて、」という言葉のなげやりな感じ。

こういう一文の反射神経は、書いていく流れで自然に出てくる場合が多いが、推敲のときのちょっとした印象の調整としても大切なところなんだよな。
冒頭、ひとつのカメラがワンカットで複数の人間の会話をなでていくアクロバティックな書きぶりから、すでにその力量がうかがえるのだが、作家のさりげないこうした細部のカンの良さみたいなものにふれると、なんだか「おっ」と関心してしまう。


※補足 ここで言う「きれいな文法」とは学校で習う「主語」「述語」という順番にせよとかいうやつね。
もうちょっと高度になると、本多勝一『日本語の作文技術』で言われているようなことでもある。

 1 節を先に、句をあとに。
 2 長い修飾語ほど先に、短いほどあとに。
 3 大状況・重要内容ほど先に、
 4 親和度(なじみ)の強弱による配置転換。

優先度1から順番になおすと文章はわかりやすくなる。加えて、「文章の入れ子構造をはずすとわかりやすくなる」などなど、すごくロジカルに論じられているのでおすすめです(「節」というのは一個以上の述語を含む複文、「句」は述語を含まない文節……めっちゃわかりづらい)。

ちなみに、九章目「リズムと文体」では、今回と似たことを論じていて、決して理論どおりが良いわけではないことも述べられている。当然といえば当然なんだけど。


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▼性欲と食欲をまちがえることがありえるだろうか。


去年読んだベストノンフィクションである『聖なるズー』について。




本書はズーフィリアと呼ばれる、動物性愛者のルポだ。
著者が取材を進めていくと、当事者以外から「彼らのしていることは動物虐待だ」という声が聞こえてくる。そもそも合意が取れない動物に対しての性欲など虐待以外の何者でもない……が、そうした思い込みが読んでいると崩されていくのがすごいところ。
当事者であるズーフィリアは「合意できている」というのだ。言葉が通じないのに。
考えてみると人間の男女だって、いい仲になると「なんとなく」とか「雰囲気で」とか言うわけで、それとは何が違うのだろうか……。合意とは一体なんだろうか。言葉の上だけでコンセンサスがとれていればそれは合意なのだろうか?
この疑問は、著者の境遇を重ねるとさらに複雑なものになる。著者は、かつて元夫のDVに遭っており、そのことを深く考えるために大学に入り直して研究をはじめ、その一環としてズーフィリアの調査をしている。
言葉が通じるはずの人間なのに実は根本的に合意していなかったこと、言葉が通じないはずなのに合意できていると主張する彼らズーフィリアの姿、そのふたつがまるで鏡像関係のようにうつる。
本書のなかで、ズーフィリアたちは「動物は食事のあとに誘ってくる」と、口を揃えて言う、その奇妙な符号に、もしかしたらそういうこともあるのかも……と思わされる。
この本は単なる性愛の話ではなく、性的合意とコミュニケーションの本質的な問題を示唆していて、哲学的でもあった。
しかし、本当に動物と人間はわかりあえているのだろうか?
ここで話は冒頭に戻る。
去年末の酒席で、本書についての話になったときに、ある人に、「犬は食欲と性欲をまちがえることがある」という話を教えてもらった。
なんでも犬に食事を与えようとすると腰をふり、射精してしまうことがあったのだという。
うーん、だとすれば動物性愛者の言う「わかる」は勘違いである可能性がある。しかし、とはいえ確かに性欲を感じているわけで、勘違いとも言えないのでは……? 
性と食の近接性について語られた赤坂憲雄の『性食考』という本があるんだけど、


これを読むと、人間だってそういう間違いをする可能性ってあるかもなーと思ったりするので、ますますわからなくなってくる。




▼関西人はあまり納豆を食べる習慣がないのだが、東のほうの納豆を食べている人と比べて健康状態はどうなのか。

なにかそういったデータは存在していないのだろうか。
というのも、健康に関する話題を調べると納豆は必ず筆頭に出てくるスーパーフードであり、先週から納豆を毎日食べているのですごく気になっている。
うどんをたべまくるという香川の糖尿病率が高いという噂は聞いたことがあるし、ワインを飲むフランス人の寿命が長いフレンチパラドックスも聞いたことがある。
年齢を重ねると健康の話が多くなるのは本当だ。
エッセイでも以前書いたが、村上春樹の小説を読んで若さを感じるのは、登場人物たちがあまり健康の話をしないせいではないだろうか。
これからは健康の話はやめて死の話をしよう。



▼クリームチーズを冷蔵庫から出したら黴がはえている。

20代のころに暮らしていた家で、炊飯器を保温にしたまま数日おいていたところ綿毛のような見事な黴が生えていた。
あのころは黴に対して嫌悪感しかなかったが、大人になった今ではよく観察する余裕ができている。
黴はすこしくすんだエメラルドグリーン色で、白い毛のようなものがところどころ森のように生い茂っていたりはげていたり複雑に分布している。
チーズの表面だけをはぎとって中を食べようと思ったのだが、食べると必ず悪夢を見るチーズというのが存在することを思い出して、これを食べたら悪夢どころではない気がしたのでやめた。
チーズが意識に作用するというのはいかにもありそうな都市伝説だが、実際のところ発酵食品というのは未知なるパワーを秘めているので脳にダイレクトになんかわかんないガーンっていうかんじのなにかがガーンってきそうな気がしていてヤバイ。

仕事場にみかんをひとつもってきた。
食べようとおもったけど、ルイボスティーを飲んでいたらチョコが食べたくなったので、みかんは飾っておくことにした。みかんのヘタの部分の★はすごくゆがんでいるので、自分で書くとナチュラルに似たものになる。
筆圧がない人間の線はいつもゆがんでいる。

仕事をしていたら食べたくなったのでみかんを食べた。
と、書いたあとに食べた。
書いたあとに辻褄を合わせるようにその行為を実行したことが、これまでもあったような気がする。言葉は、嘘を本当にする力があるわけじゃない。あの夏に出会えたはずの彼女のことばかりを書いて、それが叶ったことはない。


▼じゃがいもが9円だったので一袋買った。

ほとんど投げ売りのようなものだが、どうして9円なのだろうか。
9円でなければならない理由がどこかにあるに違いないのだが、どうもわからない。
消費税を入れるとなにか税制上の優遇処置がされるとか、計算しやすいとかそういった理由が間違いなくあるはずだが思いあたらない。いや、考えてみると9円に対して消費税はつけようがないのではないか。レシートを見直したかったが捨ててしまったので確認できない。
と、ここまで考えてふと気づいた。
これは業務用で、10キロ単位などで購入すべきものなのではないだろうか。たとえばこれを100袋買えば900円なので税込みでそこそこの値段になる。そういうことか。
納得した。なんとなく。

夜、笑いについての本を読んでいたところ、You Tube作家なる存在を知ることができた。You Tubeの裏方的存在で放送作家みたいなことをやるらしい。さっそくアポをとって仕事を頼むためにググって見るがなかなか出てこない。口コミでしか広まっていないらしいが、どうしても会いたいのでつてをたどって会うつもりである。しかし会ったところでダメ出しをされるだけなのではないだろうか。
やめておこう。
そう思ったとたんにツイッターで存在が確認できたのでさっそくフォローしてみた。

京極先生の新刊を読む。おもしろい。


小説家という職業について、嫌だけどやっている、面倒くさい、という本音が書かれていたのだが、これを聞いて本気で「ああ、このヒト小説を書くのが嫌なんだな」と思うような、言葉の裏が読めないアホな学生が育たないことを祈るばかりである。言葉というのはそうした一面的な誤解を生むが、現実というのはそれだけではないのだという話をしている本であった。そういう意味ではこの本自体が罠のようなものなのだが。


▼電気を消したはずの仕事場に電気がついていた。


消し忘れかなと思ったのだが、どう考えても入り口のところの電気は消した。となると、これは誰かが入ったということか……鍵をかけていなかったので可能性としてはありえる。なにか盗まれていないか確認したが、そもそも盗まれるようなものがない。
食べ物に毒でも入っているのではないかという、乱歩の小説みたいな妄想が浮かぶ。
たべかけのチョコレートとナッツを食べてみる。
問題なかった。

よりよい生活のために役立てます。