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イキって生きる。

僕は最近、20歳になった。
おめでとう?おぉ、ありがと、え、言ってないって?

 まぁそんなこと置いておいて、誕生日に毎年聞かれることが「今年の抱負は?」という質問なんだが、どう答えるものなんだろうか。僕のいつもの答えは「生きる!」のみ。
 今年になって初めて理由を聞かれたから、それについて話をさせてほしい。

 理由を平たく言えば、ただイキっているだけである。

 もう少し細かく言えば、「生きろ」と言われるのが嫌だから、自ら進んで「生きる」と言っていれば他人に言われることはないだろう、という魂胆である。

理由1 生活が面倒 編

 僕は生きるのが苦手だ。生きるために生活というものをするのが大変面倒臭い。
 例えばご飯を食べること。美味しいものは好きだが、1日に3回もいらない。しかも一人暮らしだから毎食作らなくちゃならない。外食でもいいのだが、金がない。厄介なのがレトルトも口に合わなくて食べる気力が消えることだ。
 あとはお風呂や着替えもとても腰が重い。
 唯一好きなことと言えば睡眠くらいだろうか。いや、寝るまでが暇すぎる。それに寝すぎると頭が痛くなるのも厄介だ。

 生活自体がとても好きになれない。他に趣味と言っても、飽き性でコロコロ変わる。ほとんどの期間はワクワクよりも飽き飽きと過ごしている。
 生きることを楽しんでいない。それでも、やはり死ぬのはもったいない気がする。
 そうやって、つまらないな〜ふらふら〜としてると、「生きろ」と言われる。生きろと言われると、人に押し付ける根拠を聞きたくなる。「死ね」と言われたときに「はいそうですか」と死ぬ人がいないのと同じだ。「生きろ」と言うならそれなりに理由があって言ってほしい。だが大抵の場合、納得のいく根拠などない。誰かが悲しむとか、命は大事だとか、それでとどまるなら誰も死にたいなんて言わない。というか、そもそも僕は死にたいとは言っていない。
 たしかに生活は面倒極まりないが、「生きろ」と言われるのも面倒極まりない。だからはじめから「生きる」と言って生活をまともに見せていれば文句はないだろう。だからとりあえず「生きる」と宣言しておく。

理由2 おとうふメンタル 編

 さらに僕は俗に言う「おとうふメンタル」である。しかも木綿豆腐ではなく、絹豆腐だ。すぐペースト状に砕け散る。ただ、立ち直りもめちゃんこ早い。夜寝れば朝には完全復活である。
 だから、もしペースト状になっても、なるべく人にバレないように強がる。心配かけるだけかけて翌朝には復活なんてキリストもびっくりだ。そしてどれだけペースト状に崩れてても「生きろ」と言われるのは前述の通り、嫌なのだ。
 つまり砕けそうな時はイキるのだ。そうすれば翌朝には生きれている。


というわけで、僕の「生きる」は「生活ちゃんとするから許せ」という願望を含み、「イキる」と掛詞のような役割を果たしてくれている。

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