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薔薇の絵の小さな小さな物語

先日書いたこの記事。

→→ 涙のわけ

ここで描かれた作品には、実は小さな物語がある。
今日はその物語を記そうと思う。

この絵を観た時、私は電車に乗っていた。
感極まってしまったのは先日の記事にも触れたけれど
その絵の感想を、とある人と話す機会があった。

その人も「いい絵だった」と称賛していた。
そして、こんなことを言ったのだった。

見た瞬間に周りがフッと消えていって
自分と絵だけになるような感覚

まさに私も絵を見たときに同じような感覚になっていたのだった。
私はそれを”音が鳴りそう”と表現していたのだけれども、この人の言葉が自分の感覚に見事にカチリとはまったのだった。

この目で観てみたい。
もしもこの目で観ることができたのなら、
私はきっとその絵から音を引っ張り出そう、音を紡ごう、そんな小さな小さな夢のようなことを語ったのだった。

次の日。
思ってもみないことが起こった。

なんと、この絵を作者さんが売ってくださるという。
こんなにも気持ちを乗せて観てしまった作品を
できれば手元に…という思いが湧いた。

ただ、なんとなく違和感というものも覚えたのだった。

違和感…それは、私の手元に置いてしまってもいいのだろうか、というもの。
なぜなら、その絵はどこかに飾られてあって、節目節目でそこに訪れて観て触れたい、そんな絵だったから。
それに、なんとなく手にするのは今じゃないような気がして。
ほんと直感レベルの話。

購入したい旨は作家さんに伝えた。
そうしてドキドキしながら締切を待った。

「もうひとり、欲しいという方がいて」
作家さんから返ってきた言葉。
その方というのは、アートを愛している人だった。

普段のやりとりからもわかるように
その方はアートをこよなく愛している。
モノを大事に大事にしているのが伝わってくるし
そのお家には心地良い風が吹いているんじゃないかなと思うくらい(イメージ)。

私の部屋に飾る想像をする。
これまた直感で、その絵の息が詰まるような気がした。
たぶん、私自身まだどこか気持ちが閉ざされているような感じを持ち合わせているからだと思う。

そんなことを感じとって
ぜひその方にお願いします、と伝えたのだった。

後日。
その方のお宅で素敵な額に入れられて
他のアートたちと共に飾られている写真を目にした。
やはり、薔薇たちの穏やかな息遣いが聴こえてきそうだった。

絵は誰かの手元に渡ってはじめて完成する

作家さんの、作品に対する想い。
飾られた作品を見て初めてこの言葉の意味がわかったような気がした。

嬉しい気持ちのまま、何度も同じ写真を見ていると、
写り込んだ黒いものが目についた。

電子ピアノだった。
その方はピアノの椅子に座り、アート作品を眺めるのが安らぎだという。

言葉にできぬ喜びが身体を巡った。

今は奏でられていないようだけれども
その部屋にはたくさんの音が染み込んだ軌跡が残っているはず。
そこに、大好きな絵が心地よく飾られていること。

その事実が嬉しくて嬉しくて。

あのとき、お願いしますと託して
本当によかった。

胸を撫で下ろして見上げると
春の夜空に優しく輝く三日月様と宵の明星様。
選択した道の正しさを知った。

3月1日、おじいちゃんの月命日の出来事だった。

#心がほんのり涙するとき
#27日目