心の中のぐちゃぐちゃな部分

毎日毎日、何やっているんだろうなと虚しくなる。やりたくないことが9割、あとの1割はアニメを観たり子どもと遊んだり好きな場所に訪れたり…とオアシスみたいな時間はあるものの、それらは一過性にすぎなくて、それを楽しみに日々をがんばれるという背中を押してくれるほどの力があるものではない。
仕事が終われば家事と子育てが待っていて、寝かしつけが終われば作業。体力も気力もない中でやっとのことで作業を終えることもしばしばあるし、時間がやっとできたときにはとうに限界を超えているから、ほんの少しでもピアノを弾きたい、という気持ちもかなわずに布団に入ることも多い。
昼間も休憩時間が取れればいいが、平日の休憩時間しかできない作業もあり、昼食もゆっくり食べられるのはひと月に何回だろう。
そんな日々を過ごしていくと、何のために生きているのかなぁという気がしてくる。
なぜ、こんなにも、やりたくないことと、やらなければならないことで、人生が塗られてしまうのかとどこにもぶつけられない怒りや虚しさが沸いてくる。

誰かに対して、あるいは社会に対して、理不尽さや不条理さ、憎しみを抱くことも数多くあるけれど、
それを噛み砕いていくと、好きなことを仕事にしてこなかったこととか、我慢して家庭を持ってしまったこととか、自分に対しての怒りというものが大きく占めていると痛感する。
だから、気持ちをどうすることもできなくて生まれてきたそういう負の遺産を、ただただ、感じなくなる瞬間が訪れる機会を待つばかり。

待っているだけでは何も起きないのはわかっているけれど、もう、何をする元気もなくて、大量の仕事や課題を、傘もない中で浴び続けているような感じだ。

なぜこう何年も、やりたいことを我慢して、やりたくないことに捧げなければならないのか。
同じ時間があったなら、もっと成果ある仕事ができただろうに、もっと報酬がもらえただろうに、もっと肩書きがあったろうに、もっと子どもの笑顔が見られただろうに、もっと本が読めただろうに、もっともっとピアノが弾けただろうに、きっと曲だっていくつも生み出せただろうに、と、
無くなった時間を悔やんで涙を拭う暮らしが続いている。

無いものはない、あるものに目を向ければとか、
大事なのは見えるものではないのだからとか、
そういう慰めも今の私には届かない。
何度もそういう思考にと転向しようと試みたけれど、できなかった。
それだけ、この数年はものすごく大変だった。大事なことを得ることはできても、やっぱりそれだけの長時間を、やりたくないことに当て続けてきたという事実は、私にとっては痛みで、”経験になった”と言えるまでには、まだまだ時間がかかるようなのだ。

まだ、昇華できる場所に至っていないのもある。
まだまだ、道半ばで、これからどう生きていけばいいのかと不安の中にいるからというのもある。

こういうブラックホールみたいな鬱々とした気持ちはいろんな楽しみも呑み込んでいくようだから怖い。
それでも、つらいね、苦しいね、毎日がんばってるね、隣の人は楽しそうだなって思ってしまうよね、夜眠れる人やゆっくりご飯を食べられる人は羨ましいと思うよね、ともう一人の小さな私が、小さなランタンを手にぎゅってしてくれる様子もちらつく。

そんなふうな毎日の暮らし。

生きるってなんなのかな。