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知らない場所で知らない人と会ってみる

「ゲイでもいいんだからね」

僕は高校生の頃、母親にそう言われました。

年頃の僕は自らの恋愛について親に全く話しませんでした。あまりにも話さないものだから、母親なりに一生懸命に察してそう言ってくれたのだと思います。男の子を好きになることも女の子を好きになることもあなたの自由で、そこに愛があるならばそれは素敵なことだと。母親の僕に対する愛情は何も変わらないと。

僕はその頃ゲイが何かあまりよくわかっていなかったので、その頃テレビによく観るIKKOさんみたいな人のことかな?だとしたら自分はだいぶ違うなと思ってました。派手な化粧をして低音の女性口調で男性に色目を使って笑いを取る人。なんだか自分とは全然関係ない特殊な人がゲイなんだと思いました。

その後僕は、外国映画やロックミュージックを通してたくさんのゲイと言われるの人に出会いました。いつも聴いていたQUEENのフレディマーキュリーもゲイであることを知りました。彼らの作品や音楽はとてもエキサイティングで刺激的でした。そして繊細で美しいものでした。僕と彼らの間には芸術を通した共感がありました。ただ、彼らはいつも誰かの注目の的でした。常識破りなスター性を彼らからは感じるので、彼らもまた僕とは遠くかけ離れた存在の様に感じました。

ゲイの人とリアルで会ってみる。

大学生の頃、僕はバックパッカーとなり発展途上国を放浪したり、アメリカやオーストラリアに留学したりしました。そこでもたくさんのゲイの方々(自らをゲイだと言っている人)に出会いました。学校だったりバーだったりサッカークラブだったり、色んなところでゲイの方々に会いました。日本では全く会ったことがない、もしくは会っていても気づかないので、最初は結構構えていたのですが、すぐにそれは必要ではないとわかりました。見た目や口調もIKKOさんみたいじゃないし、フレディマーキュリーみたいにロックスターでもありません。みんな僕と同じ様に首のよれたtシャツを着て授業を受けたり、パーティで飲みすぎた後にタコベルに行ったりしていました。友人たちの輪の中でも特にゲイキャラみたいなポジションではないし(自虐的にゲイジョークを言う人も結構いるけれども)、男性の見た目をした人同士がカフェテリアでイチャイチャしていても誰も気にも留めていませんでした。ゲイというアイデンティティをもつ彼らを特別扱いする人もいましたが、そんなことよりも彼らと会話が弾むかどうかでみんな付き合っていました。

そして、男女やゲイやレズビアン以外にも様々な性や価値観や生き方をしている人にも出会いました。肌の色が違う人にも、身につけるべき服装が違う人にも出会いました。彼らは普通の人々で、そして魅力的な人々でした。

他者との間に存在していると思っていた線が、僕の足元で次第に滲んでぼやけて見えなくなっていきました。ゲイという言葉自体があまり必要ではない様にも感じました。

いつのまにか育っていた先入観

つい先日、精神的な疾患を持つ方と友達になり、ハイキングに行った後にカフェでコーヒーを飲みました。「ちょうど昨日恋人ができたんだよ」と嬉しそうに話してくれたのですが実は僕はちょっとだけびっくりしました。彼が恋愛をしている姿を全く想像していなかったからです。そして僕はそんな自分の思い込みに気づけて良かったと思いました。また地面に引かれた線が消えていきました。

知らない場所で知らない人と会ってみる


先入観を持つことは人間の性なのだと思います。でもそれは単なる情報不足なんだと思います。僕たちは気づかないうちに自分と似たような性や価値観や生き方を持った人々の作る小さなコミュニティの中にうまくまとめられていきます。何か大きい社会システムがそのように機能しているのでしょう。特に日本はそういう社会システムが強く働きやすい環境なのではないでしょうか。

だからこそ、僕はこれからも自分が普段行かないような場所に行ってみて、そこで暮らす人々と会って話すことを大事にしていきたいと思います。

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