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てんだー7

今のところ、自分の代表作と思えるもの。

これ。

今の自分ではこの作品を超えることはできないと痛烈に感じる。二年前よりも私は腐ってしまっている。

大学に入ってからというもの、私の人間強度は下がってしまった。日々サボれるだけサボるだけの生活。身についたことなんて一つもないのではないかと思ってしまう。

ウマ娘のマチカネフクキタルが好きだ。私がこれまで様々な作品に触れてきた中で私の心に影響を与えてたキャラクターは多くいる。だが、恥も外聞もなく口にすれば、「愛」と言えるだろう感情を教えてくれたキャラクターはフクキタルが初めてだった。世間の言う「推し」の概念の解像度が上がった。とはいえ今の「推し」の概念は些か金の臭いが強いため好きではない。言うなれば天使様である。

『そうです、あのコが僕の畏敬する天使様なのです』

死神の骨は透明。

最近は「狂四郎2030」を読んでいる。凄く面白いが、下ネタやグロも多く、子どもには勧められない。

最近は「脳嚙ネウロ」を90話まで読んだ。「こんな…こんなにも近くに!」

直近はTRPG動画のリプレイをyoutubeで観ている。一日中観ていたら、なんでこんなつまらないものを観ているのだろうという感情になった。RPもせずに騒いでいる人々の何を面白がっているのだろう、と。見始めていた時は面白いと感じていた気がするのに。

直近はウマ娘で悩んでいた。それは競馬へのゲートウェイドラッグであり、そうした賭け事やそれに付随する黒いものをカーテンの後ろにしまい込んでいる悍ましいものではないか、と。実際、それは正しい指摘のようにも思える。とはいえ、ウマ娘に競馬への愛も込められているのは嘘ではない。

ソシャゲは全て同じ穴の狢なのではないかと思った。

ウマ娘で二次創作のエロを禁止している理由が権力者に媚びているからであるというのは凄くダサいことだ、という呟きを観た。ダサいをはき違えているんじゃないか、と思った。二次創作が許されているということ自体を勘違いしているような。

好きな作品の作者が嫌がることをするのはファンの姿か、という話。ほんとにそれだけの話。ああ、でも、ファンではないのかもしれない。想像力の乏しい者が強盗となって他人の宝石を狙うのだ。

「私にとって、二次創作はそれへの愛を叫ぶためのものであって、そこに愛が無ければもう私にはそれが二次創作とは思えないのです」

映画「ルックバック」を観てきたと前に書いた。あなたは誰かを神聖視しているか? 

昔、フリーザによりクリリンが殺されて悟空がスーパーサイヤ人に覚醒したように、人の死は人を成長させると信じていた。でもスーパーサイヤ人になるために必要だったのは人の死ではなく怒りであって、ベジータは別に誰か死ななくてもスーパーサイヤ人になった(悟飯やトランクスは誰かの死をきっかけとしているので、これはベジータの素質のおかげかもしれないけど)。

例えば親が死に、一人で生きるしかなくなった。それで成長することもあるだろう。

でも、それは親が死んだからというよりも、親が死んだことによりそうせざるを得なくなったという方が正しくて、親の生死に関わらず "こうするしかない" という状況になったならその人は同じような成長をするのではないかとも思ってしまう。

要するに、人の死は人が成長せざるを得ない状況を生み出すことがあるが、誰かが死ぬこと自体は自然なことで、ゲームみたいに成長するフラグになってる訳ではないということ。たとえ知り合いが死のうが、それで私が成長することはない。

「ルックバック」では、京本のぶんも頑張ろう、なんてセリフは入らない。そして、そのおかげで漫画家としての力が更に高まることになるなんてことも語られない。結果としてそうなるかもしれないが、作風の変化を読者に嘆かれる可能性だってある。つまり、主人公が成長する話ではない。成長していく中での出会いと別れの話だ。主人公が立ち直るのは、京本との今までを思い出したから。そして、恐らく京本のように自分の漫画を待っている人々を思い出したからだろう。

こう書くと創作者の為の映画のように思われるかもしれない。けれど、映画の内容は普遍的なものだと言いたい。スポーツでも、音楽でも、執筆活動でも、勉学でも、たぶん成り立つ。自分に自信をつけてくれた恩人が殺されて、そこから立ち直る話。纏めると栄養だけ抜き出したサプリメントみたいに味気なくなるとはいえ、その普遍性がわかると思う。

映画内で讃美歌のような曲が流れたからか、京本を神聖な存在として見る人がいる。恩人というものは当人からすれば地獄に降り立った天使のようなものだ。とは言え、主人公は京本を天使とは思っていないだろう。彼女にとって、京本は恩人であり戦友でありライバルでもあった。それなのに神聖視するなんて、随分と京本を切り離してはいないか? 京本はそこにいたのだ。

最近は私が私を許せるように日々努力しなければならないと感じている。要するに、私が私を許せないのは私に自信が無いからであり、自信をつけようという話である。

「ただ人は弱いので、感情にも理由をつけたがるのです。あるいは、他人の感情にも理由があると思い込むのです」

最近はコンテンツの流行の回転の速さに辟易しています。そしゃそうだ。世界中が繋がっているのだから、あっちこっちに流れを作ろうとする力が働いている。まぁ、いいじゃんか。今のところ私は「ウマ娘」と「メメントモリ」くらいしかやってない。他のコンテンツにも触れていこうじゃないか。「ブルーアーカイブ」は既に経験したので、次はいわゆるホヨバゲーでも。

ソシャゲというものはその構造上物語の終わりというものが作りにくい。それがムカつく。

そういえば、この記事のタイトルに意味は無い。

時々、私は過去に縋っているだけに思えて怖くなる。ここから誰かに連れ出してほしいと願っている。私は私に自信が無いがゆえに他の人も信じられずにいる。私はもっと押しつけがましくいくべきなのだろうか。「君は友達!」と声をあげて。ああ、そうなると私を、今の私を殺さなければならないね。

「私を殺して、いつまでも。優しく殺して、いつまでも。」

好きな曲を宣伝するよ!