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あなたは自由ですか?
こんばんは。
ここから、わたしが所属する哲学サークル初参加のまとめを書いてみます。自由についてご興味がおありでしたら、お読みくださいね。
初回は自由について考え、約5分の発表という課題がありました。なんでもいいですよ、といわれていました。そこで、わたしは身体的自由と精神的自由という2つの点でお話しました。
身体的自由
海外で暮らしていた時の話です。わたしは英会話学校でクロアチアの人と親しくなりました。気が合い、カフェでお茶をしたり、買い物に行ったりしました。ところが1992年、ボスニア紛争が起きました。当初、彼女はクラスに姿を見せていましたが、やがて連絡が取れなくなりました。
身近な人に起きた衝撃的な出来事でした。わたしはその時、初めてパスポートの重みを知りました。わたしたちが口にする自由とは、大なり小なり枠があり、その枠の中に自分が入っていて初めて身体的な自由があるのだと感じました。
その枠が消失した途端、人は自由を奪われます。今では国を追われた人が恐ろしく沢山いますが、彼らの声はなかなか外へは届きません。
精神的自由
今回のテーマはエーリッヒ・フロムの自由からの逃走です。ドイツで暮らしていたフロムは、第二次世界大戦中に米国へ亡命します。彼は、長い年月自由を求め続けてきた欧州の人々が、考えることをやめ、大きな力を持つものに飲み込まれていく様を目にします。
ハンナ・アレントもまた米国へ亡命します。その彼女は、主権と自由を同一視することを嫌いました。それは、大きな権力を手にした側の人が、主権者の自由として、恣意的に人種を選別したためです。
わたしは組織でパワハラにあったことがあります。学校でも、会社でも、人が集まるところではこれは起こり得ることだと思います。わたしはそれが起こった時、ハンナの本と出合い、そして助けられました。
彼女は、わたしにはあらゆるものに対して否定したり肯定したりできる精神的自由があると書きました。わたしはびっくりしました。あらゆるものという表現をしているからです。
それから、それが何であれ誰であれ、わたしの肯定はわたしをそのものと結び付け、わたしの否定はわたしをそのものから遠ざけると書きました。わたしはこの言葉に勇気をもらいました。わたしは自分で考えてもいいのです。
自由とは
彼女は、権力も自由も個人やグループが所有できるものではなく、それが生まれるのは人々との「間」に生じる関係性だといいます。
闊達に人が動くことを封じたり、動くことを無意味に感じるような過剰な同調があるときには、その「間」はないといいます。
わたしは自由について考えたことがあります。それは不自由を体験したからです。今、わたしは在宅介護で少々不自由です。けれど、わたしと母との関係は支配・被支配の上にはありません。そして、日々のくらしは、どちらかといえば尊厳でもないのです。これをしたら母がどう感じるのかという、母という存在を理解した上で母と関わること、それが恐らく介護される側の母の自由だと思うのです。もちろん、それはわたしの自由でもあります。
※最後までお読みいただきありがとうございました。
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