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「家の恥」より、親と子についてもっと語ろう


昨日、スタエフで、子どもを平等に育てると社会はもっと平等になる、そんな話をした。


すると沢山の意見が届いた。


ただこの国には「家の恥」という言葉がある。これがかなり厄介だなと思った。

こうした意識が強すぎると、小さな人間関係の中に閉じ込められるため、子どもに逃げ場がなくなる。だからわたしは「家の恥」は外に出した方がいいと思う。

誰にも話しちゃいけない話で、いい話などあまりない。秘密は誰かの利益か、もしくは闇だ。だから違和感を感じたなら、誰かに話してみたらいい。クラスでイジメにあったら誰かにいうのがいいように、家の話も蓋をされちゃ動けなくなる。

家族こそ、普遍的問題を内包しつつも、美しい組織に見せたい気持ちが働く場なのだ。


ところで、子どもを産んだばかりの頃は、女性は産後鬱に罹りやすい。振り返ると、わたしもドンと沈んだ時期があった。


その出産を機に、わたしは親との関りを検証した。理由はわからない。ただ子供を産んだら、自分の中にマグマのように溜まった不満が見えたのだった。

それまでのわたしは、文句ひとついわぬ優しいだけが取り柄の冴えない娘だった。それがいきなりの豹変ぶり。

向かう先は母だった。


そして、おかしなことは繰り返されるもの。わたしがかつてしたように、いきなり娘がわたしに食って掛かった。驚いたのなんの。これほど予期せぬことがあったろうか。

なぜなら、わたしは母にやってもらえなかったことを娘にしてきたつもりでいたのだから。

それなのに嚙みつかれた。

なんと。

ただ、わたしの方が、娘より遥かにしつこく厳しかった。しかも、その後わたしは親と3年交流を断った。

それからひょんなことがきっかけで、また親との交流がはじまった。

意図したわけではなかったけれど、そのブランクがよかった。わたしたちの関係は完全に別ものになっていた。それを親離れ子離れというのだとすると、それはまさにそれだった。

だから、娘に噛みつかれた時わかったのだ。あゝこれはあの儀式だなと。  

娘もいい子タイプ。わたしと母がそうだったように、彼女にも積もり積もって外に出せなかったものがあったに違いない。

そうして、娘とわたしは親離れ子離れの儀式を終えた。


だからわたしは親の威厳なんてクソくらえと思っている笑。

良い親だなんて思っている自信満々な人は、大間違いをしでかしているぐらいは思っておかなきゃいけない。

そして、昨日は、スタエフで親子に関する意見が幾つも寄せられたのだった。


そこには、世の中がいかに古めかしいまま2023年に突入したのかが描き出されているようだった。

延々と続くものは変わりにくい。歴史のあるものほど一度膿を出さなきゃだめだってことも多くの人が知っている。続くものは見直しが必要なのだ。

と同時に、わたしたちは、親は権力者だってことを忘れがちだ。狭い人間関係の中で交わされる、外の誰にも聞かれない言葉、これが要注意だと思う。

力を持つ方が、言葉を多く口にする。しかも、親は前の代から刷り込まれた言葉をそのまま口にする。所詮、親も愚かなのだ。とんと成長しない。ただ繰り返し、そして続いているだけなのだ。

親が子に押し付ける古臭い考えを、聞いていないようで子どもは聞いている。知らんぷりしていても聞こえている。それが、石に刻まれるように、子どもの体の芯に刻まれていく。

これが権力者の力だ。

親もまた、どこかの段階で見直さなきゃいけない。組織や、会社は、生き残りをかけて必ず見直しをするではないか。家族だって家族運営の見直しが必要なのだ。

長年続くものが腐り、膿を出さなきゃいけないように、親も自分の考えが一体どこからきたものなのか、しっかり向き合わなきゃいけない。

この国には、まだ兄を贔屓する親がいて、一人っ子を気の毒がる大人たちがいて、女の子に介護をさせることを当然と思う親がいて、家族の中心は男だと決めつける大人がいて、男性の介護を気の毒がる大人たちがいる。

随分長く続いてきた。

もうたくさんだ。

そろそろ見直してもいい。

「家の恥」という言葉に押し込められて苦しい人は、もうイエなんて気にしなくていい。

人はもっと自分を生きるのがいい。イエは自分の次でいい。自分を大切にするのが最も人が幸せに生きる方法ってことくらい、今では誰でも知っている。

心がザワザワする時は、どんどん語ったらいい。

「家の恥」だなんて、もう死語にしたらいい。


※最後までお読みいただきありがとうございました。


※こんな素敵な連絡を頂きました。いつもお読みくださる皆様、ありがとうございます。

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