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550日話して書き続けて

わたしはだいたいうっかりだと思う。昨朝noteをアップして気が付いた。あれれ?もう550日が過ぎてしまっているではないのと。恐らくこの投稿で552日目になる笑。肝心なタイミングをしょっちゅう逃してしまう。

毎日書いていると、投稿と同時に連続〇〇目というお知らせがくる。これはnoteならではだ。他のプラットホームにはない。というのもstand.fmは恐らくその100日ほど前から続けているはずだけれど、なんのお知らせもない。だからstand.fmの記録は知らない笑。

とにかく、こんな風に、毎日話して書いてをよくも550日も続けてこられたものだと思う。

もちろん、ネタ切れなんてしょっちゅうだけれど、それでも書く。もちろん用が入ると難しいけれど、それでも今は午前中に書いている。朝が良い。


ところで、本は読む方かもしれないけれど、わたしには特別好きな作家さんはいない。ただ、お一人だけ、好きになったり、離れたり、また好きになったりを繰り返した作家さんがいる。それが伊集院静さんだった。残念ながら亡くなってしまわれたけれど。

ちょっと強い主張をされることがあって離れたことが数回あった。あの風貌だ。強めの言葉を書かれただけで、わたしなどは、ああ、こんな男性は苦手だなと感じてしまう。けれど、伊集院さんの心に棲みついている寂しさのようなものはきっと彼の作品が好きな人なら惹かれるだろう。実に人が好きな人だと思う。

最後にグイッと引き寄せられたのが日経新聞の朝刊で連載されていた『ミチクサ先生』だった。あの連載でわたしは2人大好きになった。一人は夏目漱石。もう一人が伊集院静。

夏目漱石は高校生の頃『こころ』を読んでなんだか本当に嫌になってしまった。それが、大人になってふと思い出し、彼の本をもう一度手に取ったことがあった。その時、彼の描いた『こころ』がわたしを慰めてくれた。

その夏目漱石を伊集院静氏が『ミチクサ先生』で淡々と語りだした。今、ネットでググってみると「つまらない」などと検索ワードが出てくるけれど、わたしは初日からそれが気に入った。次第に朝刊が待ちきれなくなった。そして夏目漱石が大好きになって、彼の周りにいる人も好きになった。そうそう、新見南吉も以来お気に入りの一人だ。

その執筆の途中で『ミチクサ先生』がお休みになった。ええ!ここで終わってしまうの?と消化不良に悩まされた。それから暫くしてまた連載が始まった。ご病気だったのだ。その作品は、わたしの中で最高の作品として収まった。

その伊集院静氏は、実の弟さんを海の事故で亡くされている。そして、こちらは誰もが知っているけれど、若い奥様を病気で亡くされた。あの美しい夏目雅子氏だ。だから、伊集院氏が生涯抱え続けていた埋めようのない寂しさをファンもまた感じる。

その伊集院静氏が毎日書くということをどこかで勧めていらした。

もちろん、作家業の方は毎日書かれているのだろう。けれど、毎日書く中で人は生きている。苦しみも喜びも悲しみもすべて味わいながら生きている。

残念ながらもうはっきりとは思い出せないけれど、平凡に書け、確かそんなことをおっしゃっていたような気がする。読み手が、自分にもこれくらい書けると思えるような文章を書け、だっただろうか。よく思い出せない。

けれど、それがまさに『ミチクサ先生』だった。

読んでいて、ああ、わたしにも書けそうと思った。けれどそうではない。あれほどまでに平然と淡々とそれでいて濃く厚みのある作品をわたしは知らない。

まだまだ550日、次の目標は600日。


※最後までお読みいただきありがとうございました。


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