その隣人は名もなき
2022.11.22.Mon Sky日記
シルさんとオフィスで着替えをしながら、“自キャラ”というものについて話していた。自キャラというのは自分で作る創作キャラクターのこと。Skyでも、絵描きさんや字書きさんが星の子に姿形、性格、過去などを定めて物語を作っているのを見かける。作品として表現していなくても、誰しも頭の片隅で物語をつくることがあるだろう。
シルさんと話しながら、その自キャラの作り方や自キャラというものの捉え方は人それぞれなのだなあと知って面白かった。僕の場合、自キャラは“隣人”に近い。
僕の思考や想像力は常に頭上30センチくらいを浮遊していて、自分でコントロールできたことがない。勝手に僕の中に世界を生み、街ができ、生き物が住む。日々生活するうちに気づけば僕の中にいろんな生き物が勝手に生まれている。人だったり、動物だったり、怪物のようなよくわからない生き物だったりする。それぞれが勝手に喋り、動き回り、物語る。彼らは僕にとって操り人形ではなく、僕の手で作られていくものでもない。感覚的には。
僕がそいつに関心を持てば、姿形が見えてくる感じ。観察するうちに、そいつの性格だとか、誰と仲良いとか、どこから来たとかを知るような感覚に近い。名前は、そいつに尋ねて、そいつが僕に教えてくれて初めてわかる。そういう感覚。
幼い頃、公園でも学校でも、「よく見かけるあの子」というように相手を認識していた。あの感覚。友達の会話を聞くうちに、見かけるうちに、なんとなくどんな子かわかってくる。あだ名とかは知っているけど、本当の名前はよく知らない。その子と仲良くなって、尋ねて、教えてもらってようやく本当の名前を知る。
Skyも、同じだなと思う。放課後の校庭や公園のようだ。
火を灯して相手を認識すれば、姿形がわかる。とりあえずフレンドになる時は、暫定的に自分で名前をつける。フレのフレだったら、会話の中でなんとなく知る。チャットで少し喋ると、どんな子かなんとなくわかる。本当の名前は、相手に聞いて初めて知る。
ただ、僕は人の名前を覚えられない。幼いころ、遊んで帰ってきて「誰と遊んだの?」と聞かれて「こんな子と遊んだ」というと「お名前は?」と聞かれて「……なんだっけ」と答えるのが常だった。今日こそは名前を覚えようと思っても忘れるし、そもそも名前をどうやって聞けばいいのかわからなかった気がする。どこの学校?何歳?女の子?男の子?という質問に対しても全部わからない。大人になるにつれ、そのことでつまづくことも増えた。Skyは相手の名前がいつも見える。名前を覚えるのが得意じゃない自分にとって、緊張せずに遊べる校庭や公園みたいだ。
覚えられないのは、名前だけじゃないな。久しぶりに会った友達が、今どこの学校に通っているとか、全部わからない。帰り道で「あれ、あの子今どこに住んでんだろ」などと思う。
相手の存在を認識するとき、今目の前にいるその人しか認識しないらしい。だから、その人の仕草とか、喋るリズムや笑い方はよく覚えている。
僕にとって隣人を認識する方法がそんな感じなのだ。
そして自キャラのことも、隣人として認識しているんだなと話しながら思った。
絵も文も、そいつの人となりがわかるまでかくことが難しい。設定が全部きまるまで、何もかも曖昧になってしまう。性格がわからないと、どんな表情をするのかがわからない。なんでそんな表情をしているのか、理由がわかるまでは文を書けない。設定、特に性格が先行するのは、字書きの性質なのだろうか。絵が得意なひとは、そんな言語的な諸々などなくても、全部描き表してしまえるのかもしれない。音が得意なひとは、直感的に空気感を音で拾い上げられるのかな。僕は何が使えるのだろう。表したいものすらよく……あるのかすら、わからない。頭で考えすぎか。言葉にとらわれている。
自キャラの作り方、物語の作り方というのは、人それぞれなのだろう。できることならいろんな人に尋ねてみたい。きっと面白い。
あれやこれやと話しながら、こんな話をシルさんと直接できるとは、なんたる幸運……と思った。
名前というものについて、また書けたらいいなと思う。
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