TKG
小関の話をします。
小関はなんでも炊飯器で料理するのが好きな男子で。というか、炊飯器以外で料理するのは邪道と思ってるふしがある男子で、むやみに背が高くて髪はもじゃもじゃで縁がまっくろな眼鏡をかけてて、私の事を好きな男子なのです。ちなみに私も小関が大好き。ふふ。
小関はちょっとどうかなと思うくらいに炊飯器に向き合っているのだけれども、その小関が例外的に炊飯器を使わないご飯がある。いや、厳密に言うとお米は炊飯器で炊いているのだけど、それ以外には炊飯器を使わない奴が。
その料理の名前は、――卵かけご飯。 T・K・G
小関は暇な大学生のくせにバイトするのをよしとしない性質で心配になるのだけど、いろいろ節約というか止むに止まれずというか必然というか一緒に遊びに行くのもためらわれる程度の貧乏で安いご飯を食べる必要があって、そういうなんやかんやの結実が卵かけご飯なのです。
炊き立てのご飯に卵をぽちょんと乗せてしょう油をぐるりと廻しかけるあれ。間違いなくおいしい。マヨネーズとか胡椒をかけたりしてもいい。
でも、小関のそれはちょっと違ってた。
小関はまず、お茶碗にご飯を盛ると、しょう油をぐるりとかけて、荒くまぜる。しょう油がかかってる個所と、かかってない箇所が混在してるのが大事だそうだ。
そして、お茶碗の中でご飯で堰を作る。突然現れたそそり立つ壁。その昔、ドイツにはドイツを西ドイツと東ドイツを隔てるベルリンの壁ってのがあったんだけど、それみたいにお茶碗の中を東西に隔てるのだ。おしょう油のかかったまだらのご飯で。
お次は卵を慎重に割る。こつこつ。お茶碗の端で叩き、ぱかりと割れたら2つに分かれた殻を操って、白身だけをお茶碗の東に流し、黄身は西へと流す。まだらのご飯に遮られたお茶碗の中には、黄身と白身が東西に分かれ分かれになって収まるのだ。
小関はぱちんと手を合わせ、いただきますと頭を下げる。ちょっとおおげさでおかしいのだけれども、その場にいる私もつられて手を合わせて頭を下げてしまうほどの厳粛さで。
まず、白身の方をちょっとご飯と混ぜて食べ、ひとつ頷く。次に黄身の方をご飯と混ぜて食べる。おしょう油のかかった個所とかかってない箇所。その2種類のご飯と、2種類のたまごを混ぜながら。そして頷いて再び白身、黄身。
ころあいを見計らって、中央の壁を箸で崩す。別れ別れになった白身と黄身の感動の再会。が、感慨に耽る間もなく無情にもかき混ぜられたそれは、小関の口の中に納まるのだ。
「飛瀬、卵かけご飯で重要なのはグラデーションだ。白身、黄身、ご飯、そしておしょう油。そのどれもがあったりなかったりする場所のそれぞれの味を味わうのがいいんだ。でこぼこが肝心だ。最初に全部混ぜてしまうのは、無粋なんだよな。混ぜてしまって全部均一の味になるのはさ、たとえおいしくても、つまらないんだよ」
小関は真面目くさった顔でそんな事を言いながら卵かけご飯を食べていた。他におかずが無いだけの貧乏学生のくせに。
短大を卒業して一足先に社会人になった私は、そんな事を思いながら小関の神聖な食卓につきあっていた。
懐かしい想い出。今となってはいい想い出だ。それに、小関のTKG理論にも一理あるのかもって思う。ちょっと癪だけど。
人生っていうか、日々のあれこれっていうか、そういうものは、そういうものなのかもしれない。
おいしいばかりでもなく、淡白なばかりでもなく、時々濃い所があったり、ちょっと辛いところがあったりして。そのグラデーションがなんとも退屈せず、時にはつらいけど、楽しい。一本調子でなく、でこぼこなんだけど、それがとても愛おしいのだ。
そんな風に思いながら朝食の支度をする。ちょっと寝坊してしまったのでレタスを千切ってミニトマトを乗せただけのサラダと、ご飯と、玉子。それにおしょう油。
寝ぼけまなこの夫と娘が食卓に着くと、夫はおしょう油をご飯にかけて堰を作る。
「いいかい、芙美。たまごかけご飯で重要なのは……」
そう娘に語りかける小関を見て、私は心の中で「わかってますけどー」と突っ込む。そして今朝もまた、新しい一日が始まっていく。
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