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この次元は学校である。( 自分らしさに気づく方法)

世界は神の学校・・というお題でAIに描いてもらったら、こう成りました。

弥栄は順序、法則、形式によりて成る。
故に、順序を追わず、法則なく、形式なき所に弥栄なく、
生れ出て呼吸するものはあり得ない。
個の弥栄は、全体の弥栄である。
個が、その個性を完全に弥栄すれば全体は益々その次を弥栄する。
個と全体、愛と真との差が益々明らかになれば、
その結合は益々強固となるのが神律である。
霊界と物質界は、かくの如き関係におかれている。
其処にこそ、大生命があり、大歓喜が生れ、栄えゆくのである。

日月神示 地震の巻 第三帖より抜粋

それではSehnendさんの動画からです。

世界は神の学校である。学校にいるから学べるのではない、
しかし、その学校の中にこそ、すべての学びの機会がある。

Manly P. Hall

世の中の成り行きを見ていると、すべてが何の秩序もなく不規則に起きているように見えるかもしれません。
しかし、このような見方は、私たちの中に内在する理想と対立します。
それは時に絶望感につながり、私たちは自分自身を人生という劇場の、無力な観客として見ることになります。
しかし、本当にそうでしょうか?
 
掘り下げていくと、原因と結果の間にもっと深いつながりがあることを示唆する、別の物語が浮かび上がってきます。
世界の問題を単なる偶然にするのではなく、自然法則に根ざした型で見分けることができます。
これらの法則は、現実の物語の中に目に見えない形で、私たちの存在の本質を支配しています。
それらは揺るぎない手によって宇宙を導き、出来事の普遍的な流れを決定しているのです。
 
これらの法則を理解し、調和することは、混迷の中で明晰さへの鍵を開けることです。
宇宙を意のままに曲げるのではなく、創造と調和することで、混沌から秩序を回復しようということなのです。
私たちの現在の状況は、恣意的な偶然とは程遠く、これらの普遍的な原則に関連して、私たちが行う選択によって形作られた結果なのです。
 
私たちの問題の多くは、先を見越した計画を立てず、善悪の感覚を失っていることから生じています。
文明は、理想的には進歩の先駆けとして、人類の経験をより良いものにするためにあるべきなのです。
しかし、野心と競争に身を任せていると、個人の誠実さが影を潜めてしまうことがあります。
私たちは個人の利益ばかりに気を取られ、成功をひたすら追い求めるようになり、その結果、共存共栄という大きな枠組みが薄れてしまうのです。
 
文明の真の遺産は、物質的な成果ではなく、その中にいる一人ひとりを育て、向上させる能力にあることを忘れてしまっているのです。
 
私たちが何者であるかを理解する道は、個人の誠実さの精神を呼び覚ますことにあるのでしょう。
私たちの相互のつながりを認識し、より大きな目的の担い手として団結すること。
これらは、集団的な幸福の基盤の上で繁栄する文明の特徴です。
調和のとれた社会に、私たちの野望を織り込むことで、私たちは自分自身の存在だけでなく、私たちが住む世界の存在を、理解するための一歩を踏み出すのです。
 
この不透明な時代に、私たちは人生の目的について考えるかもしれません。
この複雑な世界で、私たちは何をすべきなのでしょうか?
 
この問いは、時代を超えて思想家や学者、探求者たちによって熟考されてきたもので、それぞれが人間理解の壮大な深淵に貢献してきました。
ある者は死後の世界という概念に慰めを見いだし、ある者はこの世の重荷を忘却の彼方に消し去ります。
しかし、私たちが知識と考察の回廊を旅するにつれ、異なる物語が形作られていくのです。
 
存在とは一瞬の出来事ではなく、成長と学習の永遠の旅なのだと。
この考え方は、私たちに自らの選択と行動に、責任を持つよう求めるものであり、それは時の流れの中で波紋を広げ、現実の構造に消えない痕跡を残します。
それは、意識的な選択を通じて、私たちの運命を形作る倫理的管理と個人の成長の道に踏み出すよう促します。
そしてこの旅の中で、私たちは存在の核心を創る目的を見つけるのです。
 
恐怖・・勇敢な心をも悩ませる恐ろしい妖怪は、しばしば未知の影から姿を現わします。
その蔓は私たちの思考に絡みつき、不安と不確実性を生み出します。
しかし、もし恐怖の正体が、誤った解釈によって呼び起こされた、誤解された力にすぎないとしたらどうでしょう?
 
『恐れというものは宇宙の摂理には存在しない』という考え方は、私たちの認識に疑問を投げかけます。
しかし、この強力な感情の起源を再考する必要があります。
 
恐怖をその本質にまで絞り込むと、世界を影で覆い隠す誤解や虚偽のもつれから、生じているように思えます。
そのルーツは、人類に陰謀を企てる悪意ある力や、目に見えない敵の物語にあります。
しかし、自省しながら内なる旅に出れば、恐怖に縛られた鎖を解く鍵が見つかるのです。
それは、私たちが外的な存在に自身を投影して、非難をしてしまう行為を捨てるように促します。
自分に意識を向けることで、恐れを永続させる負の連鎖から、解放される道が開かれるのです。
 
すべての存在を支える主権的な原理を、想像してください。
この原理は、『分裂や顕現は継ぎ目のない穴に織り込まれた糸に過ぎない』というものです。
この原理は、神の生命と呼ばれるものであれ、無限の心と呼ばれるものであれ、現実が展開する絵の役割を果たします。
この広大な宇宙の中で、それぞれの個は固有の善性を持ち、全体の調和に貢献しています。
しかし、この世界に足を踏み入れると、私たちの知覚は曇るのです。
私たちは、万物を束ねる統一性を完全に理解した状態で、到着するわけではありません。
その代わりに私たちは、個人の選択によって美徳の階段を上るために、徐々に意識を広げていく深遠な使命を課せられているのです。
 
この世界は複雑で謎に満ちていますが、ある種の学校となり、純粋さを追求することによって悟りの旅が導かれる領域となるのです。
食事療法から肉体の器官を整える練習まで、私たちの本質を浄化する鍛錬を受け入れるよう、私たちを導く道なのです。
そして、この浄化の段階的な過程の中で、私たちは知覚を覆い隠す神秘を解き明かしながら、存在の核心へと近づいていきます。
 
肉体的な清潔さの領域を、はるかに超えた浄化の旅を思い浮かべてください。
それは、感情や知性、体格といった「風景」を横断し、私たちの存在の本質を掘り下げる旅です。
過去の時代には、この過程は、内なる調和の状態を培おうとする、食事規制や運動によって例証されていました。
 
その本質における浄化とは、単なる儀式ではなく、私たちを普遍的な法則の調和に近づける、深遠な変容なのです。
創造と共鳴する器、そして『存在という調和』から得た叡智を収めることのできる器を作るように、私たちを誘います。
この旅に出るとき、私たちは普遍的な計画と天の意志に従うことの重要性を認識する古代の賢者たちと心を合わせるのです。
この浄化の中で、私たちは歴史の年代記から直感を得て、道徳的・倫理的行動の物語を綴っていることに気づきます。
ハムラビ法典のような古代の法規範から、現実の物語そのものに刻み込まれた永遠の原理まで、私たちは社会の調和と私たちが本来持っている潜在能力の実現へと導く道を発見するのです。
 
人の手によって造られたものであれ、宇宙そのものによって明らかにされたものであれ、法則は私たちの現実を形作る上で極めて重要な役割を果たしています。
時の回廊を覗くと、偉大な王に神から授けられたと信じられている「ハムラビ法典」に出会います。
この法典は、存在を支配する永遠の法則の反映であり、人間の法則と宇宙の深遠なリズムとの間の整合性の証となります。
 
無限の叡智と善良さを特徴とする永遠の法力者が、宇宙の究極の設計者として立っているのです。
この真理に仕え、自然の法則に従うことは、平穏と喜びにつながる道を受け入れることです。
逆に、虚偽と無知に自らを縛り付けることは、不幸の種をまくことになります。
人間の愚かさにもかかわらず、まだ希望の光はあります。
否定を永続させる無知は、錬金術によって知恵と愛に変えることができます。
世界の未来は、過去の過ちを正す勇気ある者、宇宙を導く永遠の原則に自分の行動を合わせる勇気ある者の肩にかかっているようです。
 
歴史を通じて繰り返されてきたのは、権力の追求と他者を支配しようとする欲望でした。
しかし、この絶え間ない追求の中にあって、自然の法則は揺るぎなく、人間の気まぐれにも屈しないという真実が響いています。
野心の壮大さにかかわらず、征服の大きさにかかわらず、存在を支配する神の法則は不変の柱として立っているのです。
 
このような現実の物語の中でこそ、真の偉大さは他者を征服することではなく、自らを極めることで明らかになります。
運命の手によって織り上げられた複雑な網の目のような壮大な計画は、誠実さが勝り、偽りの価値観が侵食され、真正性が最高位に君臨する世界を構想しています。

それは、私たちすべてを結びつける固有の現実との揺るぎないつながりをもって、波乱に満ちた流れを乗り切るために、自分自身に忠実であることを私たちに促す構想なのです。





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