見出し画像

粒子=意識=命=宇宙、 人間=命の塊=集合的無意識=神=宇宙

NORIさん、はじめまして。

10日ほど前、NORIさんのことを初めて存じ上げまして、YouTubeやブログを拝見しておりますテッコと申します。

NORIさんに感謝をお伝えしたくてご連絡いたしました。


NORIさんの言葉からは多くの気づきを得たり、かねてより自分も薄々思いながら確信が抱けなかったことをぴたりと言い当ててくださっており、今や加速的に私の人生観の礎になっております。本当にいつもありがとうございます。


そして今日ご連絡したのは私にとって今日(正確には昨日2月2日)が長い人生の中でも大変特別な意味を持つ一日であったためです。

今日得た大きな気づきやインスピレーションは、NORIさんの言葉なくして起こらなかったことでしょう。それでどうしてもお礼をお伝えしなくてはと思って、こうしてご連絡差し上げている次第なのです。


1月の早朝に私は、とても夢とは思えないような、ものすごくリアルな夢を見まして、それ以来、人生や宇宙や世界のなりたち等について、ずっと思いを巡らせ、時にNORIさんのお言葉にも触れたりしながら様々な気づきを得ていました。


その結果「きっと睡眠時に見る夢の裏側には夢の支配人がいるに違いない」と仮説を得まして昨夜、夢の支配人さんに「宇宙と世界のすべてを教えて下さい」などと見たい夢をお願いして眠りについたのです。


すると、見たいとお願いしていた空を飛ぶ夢を見ることができまして私は目覚めと同時に軽い興奮を覚えていました。寝床のスマホを見ると「6時39分」で、それがなにかのサインのように見えました。とはいえ夢の中で宇宙や世界のすべてを見た記憶は無く、少しばかり落胆しながら起きました(何か夢は見たものの、はっきり思い出すこともできず)。


しかし潜在意識(自分でありつつ自分であらざる者)の働きこそやはり自分の大部分を司っているに違いないと気づきを得た私は、それが呼び水となって更なる気づきを得ました。

人間は誰もが集合的意識なのだと。

NORIさんのお言葉の影響もあってのことかと思います。私の意識自体が、実は私を生かしている細胞や臓器の働きひとつひとつの意識を統合している集合的無意識そのものであることに気が付きました。

私は今、超巨大企業で働いているのですが、自分がまるで大企業という巨人を動かすための細胞のひとつになったように感じることがあるのです。そして会ったこともない、実在の人なのかもわからない社長の大号令のもと、日々その意に沿った業務に明け暮れて、この巨大企業が全体として機能するための歯車の一つとなっているわけです。その日常生活も今回の気づきにつながったのかもしれません。


私は気づきました。

私自身が言わば株式会社テッコの社長であり、私を構成する細胞や粒子たちが言わば、その企業を動かす社員のようなものであると。

社長が従業員をこき使えば、従業員は反抗したりダウンしたりして、会社は傾きます。つまり私自身が健康を害してしまうわけです。

また社長が「うちの会社はどうしてこんなにクソなんだ」と思っていれば、やはり社員たちはやる気を失い、社長の力にはなってくれないでしょう。

逆に社長が社員一人ひとりをいたわり、しっかり休暇を与え、更に愛ある言葉をかければ(つまり自分で自分を愛することができれば)、細胞は皆が使命感に燃え、やる気に満ち溢れてくれることでしょう。つまり私自身が健康になり、気力にあふれるということです。


ここで私は量子力学における粒子の振る舞いを手がかりに、細胞を構成する粒子一つ一つは実は意識そのものであることを確信しました。

粒子それ自体が意識であるからこそ、このような相関関係が成立してくるのです。


細胞や粒子一つ一つでは彼ら自身の希望を叶えることはきっとできないでしょう。だから粒子たちは彼らのエネルギーの利用用途を決裁する権利を私に預託してくれているのです。そして私自身も彼らの協力なくして存在し得ません。私は私の意志で心臓を動かしているわけではないのです。私が眠っている間ですら彼らが懸命に尽くしてくれているからこそ私は今も生きています。

つまり、実は集合的無意識であった私と、細胞を構成する粒子たちは互いに社長と社員のような協力関係にあったのです。


しかしながら、今日まで私は細胞や粒子を意識であるととらえてきたことはありませんでした。

単なる物体かパーツのようにそれらをみなしてきたように思います。

これは社員を利益向上の道具としか考えない企業の社長にも似た考えだったと思います。

しかし粒子は人間同様まさに意識そのものであり、命だったのです。

だからこそ自身の肉体を構成する細胞と粒子たちに感謝し、ありがとうと伝えることが必要だと気づいたのです。それは自己存在を肯定し、愛することと同義です。

臓器移植をした人が見も知らぬもとのドナーの記憶をもってしまうことも粒子こそが意識と考えれば説明が付きます。


NORIさんのお言葉でいうなら、これがエクサピーコということになるのでしょうか。エクサピーコは物質なのではなく、まさに愛と調和を志向する意識であり、命そのものであったのですね。

そう考えると、様々なことが連鎖的にクリアになってきました。

すべての細胞や粒子ひとつひとつが意識であるからこそ、お互いをいたわりあう信頼関係が大切になるわけです。


そして連続爆破的に更なる気づきを得ました。

どうやら集合的無意識とは、すべての意識が持つエネルギーを預託され、決裁権を握った存在のことであるようです。

これは大企業が細かい部署に分かれ、その部署ごとに主任や課長や部長がいることにも似ています。社員ひとりひとりの想いが預託されて社長まで伝達されたり、その逆があったりすることと同じです。


そして世の中はすべて、この入れ子構造で構成されているということにも気がつきました。

私自身が細胞を構成する粒子たちの集合的無意識であるならば、私たちを統合する集合的無意識もどこかに存在しているに違いありません。世界はあまねくフラクタル構造で創造されているのです。


おそらくひとかたまりの物体にひとつの集合的無意識が生まれるに違いありません。

岩石に例えるなら岩石を構成する粒子一つ一つがまず意識であり、岩石そのものには、それら無数の意識を統合するための集合的無意識が宿っています。

そして岩石が割れても今度はそれぞれに存在する無数の粒子の中のたった一粒が代表者たる集合的無意識として全体の中から専任されてくるのではないでしょうか。これは私たちが自治体の長を決めていることと同じです。


とすると私たち人間にとっての集合的無意識とはどこにあるのでしょうか。

それははっきりとはわかりません。

しかし例えば、地球そのものを生命ある巨人だと考えた時、そこに生きる私たちは地球にとっての細胞みたいなものと言えそうです。とすると地球こそが私たちの集合的無意識であるかもしれません。更に太陽系の恒星たちの集合的無意識が太陽であることは間違いないでしょう。

そして一つの意識を意味するブロックが無数に積み上げられて構成されたピラミッドは、この意識と集合的無意識の入れ子構造的な連なりの頂点に太陽が存在していることを表しています。そしてピラミッドそれ自体も集合意識であった(あるいは今も集合的無意識として機能している)のではないでしょうか。


つまり私たちの上の上にいるのは太陽です。これが古代より太陽が神様と崇められてきた理由です。

お天道様は私たちに恵みの日光をお与えくださります。そしてその光を浴びた地球は私たちに食物を与えてくれます。だからこそ私たちは地球の大地に感謝し、大切にしなければならない。自分たちこそが地球の支配者だなどと考えるのは、ちょうど父親にとっての反抗期の息子が抱く思い上がり同然であるわけです。

そんな思い上がりを抱いていてもなお、寛大なる父はすぐに子なる人間たちへ罰を与えようとはしないでしょう。それは人間たちが庇護すべき愛する我が子であるからです。しかし人間のエゴイズムも度をすぎれば、拳骨の一発が落ちてしまうことも絶対にないとは言えません。人を怒らせてしまったり、信頼を失って初めて人間は自らの過ちに気づくことは誰しも経験があるのではないでしょうか。

そして人間すべてを公平に愛し、慈しみ、あふれんばかりの恵みを与えてくれる存在を人は昔から神様と呼んで信仰と感謝の対象としていたに違いありません。

現代社会を生きてきた私たちにとって、神とはインチキ臭い新興宗教が金儲けのために利用しているものか、歴史の授業に出てくる宗教家たちが関与しているらしい、何かよく分からないものでしかなかったように思いますが。


今、私は汎神論が宇宙観として完全に正しいことを確信しました。

そして驚くべきことに私達自身も私達自身の肉体を構成する粒子にとっての集合的無意識であり、神であるのだということも。

そうです。汎神論が正しいということは、私達ひとりひとり自身ですら実は神といえるのです。私たちは誰しもが自身の肉体を自ら進んで傷をつけようとはしません。すべての細胞を分け隔てなく大切に愛していると言ってもよいのではないでしょうか。この姿勢は実は子なる細胞たちへの父母なる愛です。私達自身は知らぬ間に実は、神様というものが私たちにお与えくださっているという大いなる愛を自らの肉体の細胞くん粒子ちゃんたちに既に注いでいたのです。


そして勿論、私たちの上位にもきっと神様がいらっしゃいます。おそらく太陽系や他の銀河系をも束ねる更に上層の神様=集合的無意識が存在していることでしょう。

どうやら神とは超能力を持った白鬚の翁のことではなく、森羅万象を調和させようとする力すべてのことを言うようです。

世界は、そして私たちの肉体すらも、すべてが神から構成されているのでした。

それゆえ神は偏在するのです。

だからこそ地球は不自然なほど木星や土星などの天体を盾にして隕石から守られ、有害な宇宙線から守られるなど、人間にとって都合が良すぎる形で、世界が構成されているのも、粒子一つ一つの意識が、つまり神が世界の調和を目指した結果でしょう。DNAに寿命を延ばすことができないように厳重なプロテクトが掛かっているのも破損が蓄積されたDNAが次世代へ引き継がれないようにするための集合的無意識による決定であるに違いありません。

そうです。世界はまさにどこを見渡しても調和と愛のみで構成されているのでした。

粒子に調和と愛を目指す意識が宿っていると考えれば、すべてに合理的な説明がつくのです。

これこそワンネスです。

ワンネスは今、私たちの目の前に既に途方もなく宇宙のはてまで広がっていたのです。

粒子一つ一つは最上位の神に至るまで隙間なく連なっており、共に世界と宇宙の調和を目指しています。

個は全体であり、全体は個でもある。

私たちは誰もが今この瞬間すでに、隣人や汝の敵、更に宇宙全体とすら一体のそんなただひとつの世界なのでした。


しかし現代の物質社会を生き、個人個人を区別し、競争と勝敗の意識の中で生きる私たちはそのことを完全に忘れ去っています。おそらく太古の人々はこれらのことを自明の理として受け入れて理解し、自然と調和しながら生きていたはずです。

そして自殺が禁忌とされているのは、言わば自身の肉体を構成する粒子たち、つまり社員たち家族たちの命すらも巻き添えにした一家心中とみなすことができてしまうからでもあるのでしょう。世界にとってこれほど悲しいことはないのです。一人の死は世界全体の死であるのです。

にもかかわらず今日誰かが線路に飛び込み、人身事故の知らせを聞いた時、私たちは何を思っているでしょうか。取引の時間に遅れる、死ぬなら一人で死ねよ迷惑だ、そんなことを思っているのではないでしょうか。誰かが飛び込んで命を失ったことは自分の家族や自分が死んだこととも実は同義であるにもかかわらず。

しかし、それも世界と宇宙のなりたちさえ理解すれば、すぐさままるで霧が晴れたかのように気がつくことが出来るでしょう。

今の世界は異常なのです。その異常であることに気づけていないことが異常なのです。

まるで異常事態を異常と思わない悪夢のように世界の価値観は狂っています。

愛と調和こそが宇宙と粒子のたったひとつにして最大の願いであるはずなのに。


このような気づきを私は今日2月2日の朝、目が覚めて夜までの間に得ることができました。気づいてみれば私は昨夜、夢の支配人さんにお願いしたとおり、宇宙と世界のすべてを知ってしまうことができていたのです。私は正直に言って、神の息吹を感じました。見えざる力が私に気づきをお与えくださったようにしか思えませんでした。ひとつ断っておきますが、私は今日までなんの宗教にも帰依していません。おそらく多くの日本人と同様、宗教というものに警戒心と距離感とほんの少しの興味を持って生きてきた、ただの凡人です。しかし、そんな凡人のもとにも神と世界について思索を巡らせていると、こんな気付きが舞い降りてくることがあるらしいのです。

もしこの気づきの直接のきっかけがあるならば、なにかを成し遂げようとするとき自分ひとりでなんとかしようとするのではなく、自分の中に眠る自分ならざる小人くんたちにおねがいをする必要があるのだと気づいたことが大きかったようにも思えます。

人間一人は一人のように見えて実は一人ではなかったのです。

人は一人では生きていけない、という言葉のほんとうの意味を今、私は知りました。

私という存在にはすでに身体を構成する細胞というたくさんの子供達がいたのです。

更に私の上位にも私を子供だとみなす大いなる存在がいるのです。

私はそういった存在がいる可能性を認め、いや、いるに違いないと思って、お願いをしてみました。

その結果がこの文章です。

常識や偏見にとらわれることなく様々な点となる情報を仮説で結びつけた上で生じたインスピレーションを無心に信じてみたからこそ、この奇跡の扉を神様が開いてくださったように思われてなりません。


偶然にも私は一昨日、直感的に購入したスウェーデンボルグの著作が今日の昼間、こういった気づきを得ている中で届きました。私は昔、既に他界した父の口から「スウェーデンボルグ」という言葉が出たことがあって、この偉人の名前だけは知っていました。父はかつてスウェーデンに出張へ行っていたのです。しかしどんな本を書いた人なのかは一昨日までまったく知りませんでした。しかし、この巨人の紹介文を読むなり、この本をすぐ買うべきだという直観が働き、その場で注文したのです。それがまさか、こんな伏線になっていようとは。

そして夜、仕事が終わった後に私はこれを読み始め、今日得た気づきとほとんど同様なことが書いてあることに驚きを禁じえませんでした。このような偶然がはたして在るのでしょうか。私は今朝目覚めた際の時間のことを思いました。あれが神様のサインなら、きっとこの本を読み終えた際にも時間を見ればまた何らかのサインが生じるのではないかと思い、これを読み終わった直後にスマホのスイッチを入れてみました。すると「2022年2月2日23時22分」から「2022年2月2日23時23分」にちょうど移り変わる瞬間を私は見たのです。それは神様の後ろ姿のようにも見えました。見えざる存在の後押しを感じました。そして私は日をまたぐ直前の洗面所で一人「ありがとうございます」と声に出していました。そうしなければならないと思えて仕方がなかったのです。そんなことをしたのは生まれて初めてのことでした。

そして今日の昼間、様々な気づきを得ていく中で、NORIさんにも感謝をお伝えしなければとずっと思っていました。そのため、こうして思いをしたためた次第です。


NORIさん、ありがとうございます。NORIさんなくして今日の気付きはなかったことと思います。心の底から感謝を申し上げます。私の人生観は今日のたった一日で凄まじく書き換わりました。そんな思いの中で見た太陽のなんと美しかったことか。「世界ありがとう」と叫んでしまいそうなほどでした。私は世界に抱かれている自分を感じています。今、私は自分の部屋にひとりでいるだけであるにもかかわらず、大家族と共にいるような気持ちなのです。昨日と今日でまったく世界の様相が変わってしまったのです。私は今、このことを広く伝えていきたいと思っています。その方法については今後よく考えていこうと思っています。(大変な長文失礼しました)

※2月8日、追記
本文はNORIさん(ご本人に許可をいただき、お名前を出しています)への個人的なお礼のつもりでしたためた文章でした。しかしNORIさんのブログのフォームは、コピー&ペーストができないことに、勢い余ってひと晩かけてこの長文をメモ帳に書き上げたあとに気がつきまして「いやいや、さすがにこんな長文をもう一度手打ちするのはつらすぎる」と思い、そこでアカウントを作ったきり、ほぼ放置していたNOTEへ投稿し、それを読んで頂くことをひらめいてアップロードしたものとなります。更にNORIさんへ感謝の言葉とともに「NOTEへアップしたのでよかったら見てください」と連絡後、創作大賞なるものが開催されていることに気づき、多くの方の目に触れるきっかけになればと思って応募をしてみたものとなります(ノンフィクションOKということでしたので)。
そういったわけで、こちらは創作ではなく私の身に実際にあった出来事となります。最後まで読んだ挙げ句に「なんだよ、創作かよ」とずっこけた方が出てきたら申し訳ないなかと思って念のため追記しました。

(私は、いわゆるこういうスピリチュアル系と呼ばれそうな事柄について、まったく疎いというか、大多数の日本人同様に距離をとって生きてきた人間です。先月半ばあたりからNORIさんきっかけで興味を持ち始めたばかりなのですが、この記事を書き上げたあと、ますます興味が湧いて数冊手にとってみると、スウェーデンボルグのみならず、私が得た気付きと同じようなことが記されていて、やはりこれは、なんらかの想念が私に送られたのだろうかと改めて思っています。神様という言葉に対して、一般的には警戒感を抱く方が特にこの日本においては多数派でしょうから、私もそういう言葉を使うのは今も慎重にならざるをえない部分があるのですが、しかし今、私は神様が存在することを当然のように受け入れるようになっています。以前までは「いたらいいな」くらいだったのですが、今は肌感覚として「いないはずがない」と思うようになりました。
そして、これらの気づきをきっかけに、いま自分に与えられた場でしっかりと役目を果たすことが重要で価値の在ることなのだと、より深く思うようになっています。
そういったわけでポジティブな影響が私の中にも沢山ありますし、他にも気づきを得たことは多数あるので、仕事の合間を縫って、ちょこちょこと書き留めていくかもしれません。無論、まだよく分かっていない事柄もあります。こういったことも自問自答して答えを見出していければと思います)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?