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おとうと

第4話

姉の欲目であることは否めないが弟はかなり可愛い男の子に見えた。
いつもニコニコよく笑いよく食べ、幼いながらに気配りもできる。
3歳になった弟を連れ母が地元のお寺にお参りに行った際
帰りしな職員に話しかけられたそうだ。
「どうしたらあんな信心深い子が育つの?」
何のことだか分からず聞き返す母にその職員は
「お母さんが手を合わせてお祈りする隣で、ぼくちゃんも一緒に
手を合わせてお参りしていたもの。そういう風に躾けてるんじゃないの?」
そんなことを話してくれたそうだ。
教えた覚えのない母は大層驚き、弟に
「ちゃんとお手々合わせられたの?」
と聞いたらしい。弟は何も言わずただじっと母を見つめていたようだが。
学校から帰宅してその話を聞かされ、私は母の隣で小さな手を合わせ
深々と仏像にお辞儀する弟の姿を鮮明に思い描き
言葉を失うほどの愛情を迸らせたものだ。
母のやり様を見て自分なりの理解で仏さまに手を合わせる。
信心深いと職員に言われたそうだが本当にその通りだと思った。
私はそんな経験していない。自宅にあった祖父の仏壇に手を合わせるのも
面倒で嫌がっていたから。
捧げもののお菓子を食べるために手を合わせていたようなものだ。
「これ下げるね」と胸の中で一言断りながら。

私が幼い頃からずっと、母はとても苦しんでいた。
惚れぬいた男に妻子がいたこと。
その妻子から夫と父を奪ったこと。
妻子の気持ちも考えず父と共に過ごしてきたこと。
夫であり父である男の子を孕んだこと。
その子を産んだこと。
自業自得とはいえ罪悪感に苛まれる日々。
そこには金銭的な苦労も伴っていた。

両親がまだ入籍する前、父は独立し会社を設立した。
軌道に乗らない経営に父も頭を抱えていたと後年聞いた。
生活苦にあえぐ中、設立してすぐ父の会社で事務を執るよう命ぜられる。
まだ10代の頃同僚ホステスからされた
「1日1文字覚えれば1年で365文字覚えられる。それを数年続けてごらん」
というアドバイスに従ったから、読み書きができないことはなかったが
「小学校も卒業していない」
という事実が心のど真ん中に重しとして圧し掛かっていた母にとって
それらは鷲掴みにされた心をぐしゃっと潰され、床に叩き落され
土足で踏みにじられるくらいの屈辱と恐怖にまみれていた。
その上算盤も電卓もうまく使いこなせない母に
「銀行に行って当座口座を開設してこい」
など、大人になって振り返るに
「取引もない新規客が当座口座って!」
と慄いてしまうようなことを父は母に平然と指示していた。
モノを知らない母は当座口座を作ってこいと
当時夫ではなかった父に言われて、
社会とはそういうものなのだという危なっかしい理解で
父に指定された銀行に行き、窓口の女性に
「当座預金口座を作りたいのですが」
と伝えたそうだ。女性行員は
「当座ですか?普通ではなく?」
至極当然の問いを投げかける。しかし猪突猛進型の母は
不思議そうに尋ねる女性行員の問いに迷うことなく、父に言われた通り
「当座預金の口座を作りたい」
と再度伝えたらしい。少々お待ちください、と女性行員に言われ
言われた通り待っていると奥から支店長が現れたそうだ。
パテーションで仕切られた簡素な応接室に招かれ
腰掛けるように勧められた椅子に座り、母はそこでやっと
(当座口座って何?)
と疑問を抱いたそうだ。
もしかしてとんでもないお願いをしているのでは?と。
目の前に座った支店長は無知な母にとても紳士的に
「当座口座とはどういったものか」を説明してくださったという。
母にも分かるように伝えてくださった支店長のお人柄を
当時の母より年嵩になった私は今でも思う。
まだ立ち上げたばかりの会社。従業員は片手で足りるほど。
寄越された事務員は普通口座と当座口座の区別もつかない。
追い返そうと思えばすぐにでも追い返せたはずだ。
でも支店長はそれをしなかった。
父に言われた通りに当座口座を作りたいのだと必死に伝え
スラスラと字が書けない母をぞんざいに扱うこともなく、
「私たちは『人』を見ます。経営状態などは誤魔化そうと思えば
いくらでも誤魔化せるものなんです。お話はよく分かりました。
社長を呼んでください。口座をお作りします」
支店長にそう言われ母は急いで会社に戻った。
父に「支店長さんがあなたにすぐ銀行に来るようにって」
と伝える。携帯電話どころかポケットベルもまだなかった時代。
「作れたのか」
一言残して父は銀行へ車を走らせたと母は言った。
この時の母の疲労感を思うと私まで疲れてくる。
張りつめた日常、母は昼は父の会社で事務を執り
夜はホステスとして働きながら生活費を工面していた。
同伴やアフターをすれば嫉妬に狂った父に暴力をふるわれる。
そんなこともあったようだ。

母は不安定な精神の拠り所を、あるお寺に求めたのだった。

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