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おとうと

第36話

あっという間に夏になった。

その日父に誘われ、行きつけの焼肉店へ向かった。
私たちはいつもファミリー向けの店に行くが
父はそうではない。
ファミリー向けのお店の「黒毛和牛」ではない黒毛和牛が置いてある
超高級店だ。

カウンターの向こうで肉を捌く逞しい男性たちを背景に
両親と弟と食事を楽しんだ。
退学した弟はさすがに我儘が過ぎたと感じていたようで、
この頃かなり大人しくなっていた。
働く母と姉、そして父。
「何物でもない自分」を持て余しているようにも見えた。
私は何かしら偉そうなことを弟に宣ったような記憶があるのだが、
何を言ったかは覚えていない。

父から貰った小遣いで何やら本を買っていた。
ノベル小説のようだった。表紙のイラストが漫画のように見えた。
静かに本を読む弟だったが、何かの拍子に調子を崩し
砕けた生活に堕ちる懸念はこの頃からあった。
父が焼いてくれる肉を頬張りながら、持ってきた小説に目を落としている。
清濁併せ呑むタイプだったのかも知れない。
とても気が優しく穏やかで他人を思いやる性質を持つ反面、
受験前に喧嘩した友達に対する接し方のように
一度嫌った相手はとことん嫌う面もあった。
嫌いな相手なら無視してもいいと、誤解している様子もあって
そういうところは改めた方がいいと忠告したが、
返事だけで改善されることはなかった。

滔々と父は若い頃の話を聞かせてくれた。
田舎暮らしも農業も嫌で、地元を出たい一心で
親を騙して受験料をせしめ受験し、高校に進学したこと。
卒業後進路を他県に求め肉体労働に従事したこと。
支給された地下足袋はすぐ駄目になって、裸足で現場まで通ったこと。
数年後帰省して建設会社に職を得、出世したこと。
しかし社長とそりが合わず、クビ同然で退職したこと。
そして母と共に会社を立ち上げたこと。
高校を卒業してから会社設立するまでの父の経歴を
私はこの時初めて知った。24歳になっていた。

普段はお気楽呑気な姿しか家族に見せない父の
本当の顔を知ったような気になった。
苦労してきた人はそれを大っぴらにしないというが
父はその典型だと思った。

「俺は自分に言い訳せずにここまできた。
お前がこの先どういう道に進むか分からんが、
とにかくやれるところまでやってみろ。
男なんだから腹を括れ。俺が見てやる」

確か、このようなことを弟に説いた。
弟は静かに頷き「頑張る」と口にした。
父の回顧談に私はいたく感動していた。
この人の娘でいることを誇っていいと思った。
この頃は既に父との関係はかなり良好になっていたから、
すんなり疑問や質問は口をついて出た。
言葉で自分を飾ることを嫌う大人の「腹を括れ」には
大変な重みがあった。

弟は翌日から職探しを始める。
だが現実はそう甘くない。
夏休みの学生バイトと雇用先が誤解して面接し、
学生じゃないなら雇えないと帰されるなど度々あった。
その都度激しく落ち込むのだが、
それでも前向きに職探ししていた。
聞けば喫茶店の店内業務やファンシーショップの店員や
そんな職種に応募していて

「あんたさ、自分が男だって忘れてない?」

と指摘することを忘れなかった。
夏が過ぎ秋になっても弟は無職のまま。
何度忠告しても飲食系のバイトに食指を伸ばす。
かなり太かったから、狭い喫茶店に職を得ることなど
有り得ないと、誰が見ても分かるのだが
本人だけ理解できずにいた。
いつかはファストフード店に面接に行き、
帰宅してすぐ取った電話で不採用を告げられた。
これはいくら何でも失礼だろうと
私も暫くその店に行くことを控えた。

何者でもない弟は焦燥を募らせる。
仕事なら何でもいいと言い出したのは冬になる頃。
弟は高校中退者の喪明けと言っていい、16歳を迎えた。
15歳から応募できる職種は高校中退者を雇用しない。
16歳になれば少しは幅も広がると、弟は口にしていた。
けれど道は拓けなかった。

「どうせ根気ないよね?高校2ヶ月で退学だもんね」

言外に言われるセリフ。
見かねて母に提案する。

「お母さんのとこで働かせてもらえばいいじゃん」

その頃母は、食肉加工業に従事していた。
持ち場の責任者としてそれなりの給料を得ていた。
仕事に明け暮れる毎日だったが、充実しているように見えた。
その中に弟を入れてもらえたら。
母親の職場なんだから下手なことはすまい。
私の考えを母に伝えたが、母はいい返事を寄越さなかった。
不思議に思った。私の

「深いこと考えなくても大丈夫じゃない?
あいつが働ける場所ってそんなに多くないし」

という戯言にも頷くことをしなかった。
結局弟は母の職場に雇用されるのだが
これが大きな誤りだった。
私がどんなに謝罪したって母に詫びきれない。
色の悪い返事を寄越した母の直感に従うべきだった。
色々ともう遅いけれど。

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