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虐待と私


※虐待の描写があります。
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「どうせ誰もわかってくれない」

この気持ちが常にある。

私の家には父はいないが、母が地元では患者数の多い歯医医院の院長をしている。

私の家は、外から見たらすごく立派で、田舎のトタンのボロボロの家が立ち並ぶ中、ひときわ派手で目立っている。

母はベンツやCHANEL、VUITTONなどの見た目が派手なものが好きでたくさん持っている。
車も一年単位で変えてしまう。もちろん全てベンツ。

大都会の、お金持ちが住むゾーンに母が住めばきっと馴染んでいただろうが、田舎でそれはとにかく目立つ。


とにかく目立っているので妬まれたりしてしまう可能性がある。妬まれるといじめられる。
だから私は、金銭感覚がみんなとおんなじようになるように意識したし、いじめられないよう立ち回りにものすごく気を遣った。
いじめられないように、家がお金持ちでも妬まれないようなキャラを作ることを徹底した。

そのおかげか、小中高大、習い事、バイトでも私はいじめられることなく楽しく過ごせている。

でも、それでも、
「家で高いお肉食べてるんでしょ?」とか
「回転寿司とか行ったことないでしょ笑」とか
「お母さんの車の車種なんなの?高いの乗ってるんでしょ?」とか、普通の家庭ではなかなか聞かれないようなことを聞かれる。

私がどんなに妬まれないキャラを作っても、実家の煌びやかさは隠せない。

みんなにはそういうふうに見えているんだろうか。

私は、回転寿司のお寿司が大好きだし、お肉は実はそんなに好きではないのであまり食べない。
車の車種は確かにベンツだけど、それを言った時の他人のリアクションがだるいので、
「え?何乗ってんだろ?わかんないや笑 車って結局ただの鉄の塊でしょ? 鉄の塊の種類なんて興味がないのにわかるわけないよ!笑」

と適当に言ってはぐらかしていた。自分の親が持っている車の種類がわからないわけがない。

そして私の家は確かに外から見たら、人から羨まれる家庭であったが、実際は全然違っていた。


母はとにかく厳しかった。

例えば、小学校のテストの点数が悪かった時、晩御飯を残した時、宿題がわからなかった時、何時間も私を叱る。少し怒られるくらいならいい。
本当に何時間も。私がどれだけ泣いても母は怒ることをやめない。

宿題がわからないと、母が私の隣で勉強を教える。母に聞かれたことに対して、スラスラと答えないと、顔を思いっきり叩かれる。
そして私は泣いてしまう。
泣いていると答えられなくなるのでまた叩かれる。

それの繰り返し。私が泣かなくなるまで続く。

一度泣きすぎて、宿題プリントがぶよぶよになったことがある。
そのプリントを先生に出すと、
「どうしたのこれ?お水でも溢したのかな?」
と言われた。
私はなんとなく言っちゃいけないような気がして、
「そうなんです、お水、溢しちゃって笑」
と言った。

先生、気づいて欲しい...なんて思いながら笑顔で嘘をついた。

母の怒り方は色々ある。

少しイライラすると、怒鳴る。
さらに許せなくなると叩く。物を投げる。
1週間私を無視をする。話しかけても知らんぷり。ご飯はもちろん作らない。わざとらしくドアを大きな音をさせて閉める。怒っているアピールをするために。
そして最上級に怒ると私を無理やり家の外や、押し入れ、歯医者のレントゲン室に閉じ込める。

私はとにかく閉じ込められるのが嫌いだった。
真っ暗なところや夜中に外に閉め出されるとストレスでお腹が痛くなって仕方がなくなる。

だから外に出されそうになると、重たい机や、椅子、ドアなどに必死でしがみつき拒む。
それでも母は私の手を一本ずつ引き剥がし、無理やり閉め出す。

私が本気の抵抗をして、うまく外に出せない時は、おばあちゃんに頼んで、おばあちゃんは私の足を持ち、母は私の手を持ち、そのまま私を運び無理やり外に出す。
その時の記憶はすごくすごく鮮明で、泣きながら身を捩らせ抵抗したのがまるで少し前の出来事のように感じられる。

私はとにかく、とにかく家での生活が苦痛でしかなかった。

外から見たら、歯医者の娘のお嬢さん。
お金持ちで家族の仲が良くて、美味しい物を食べて、何不自由なく暮らしている、そんな印象を持たれていた。
現実は真反対なのに。

そして私はだんだん、他人にわかってもらうことを諦めるようになった。
わかってもらうより、もう適当に取り繕って、みんなの印象通りの人になる方が楽だと思った。

実際楽だった。
裏では悲惨な目に遭ってる人、と自分を認識するより、そういう感情に蓋をして全部無かったことにする。私と私の母は仲が良くて、虐待なんて受けてない、普通の家庭、そう思うようにした。

それでもどうしても心が傷む日があったので、そんな日はただ無心で手首を切っていた。
自分の心の傷を手首に置換することで無かったことにしていた。


こうして自分の感情に蓋をして過ごしていったのだが、それもやはり長くは続かない。
心はすごく正直だと思う。本当に。

大学に入ると母の元を離れて、ただただ平穏な日々が訪れるようになった。
幸せなはずなのに、それがすごくすごく苦痛だった。
こんなにも幸せで安全な生活を私は送ることができる権利を持っていたのに、18までの私は毎日、虐げられ、安全には程遠い、不安に塗れた生活を送っていたのだ。

私が、幸せで安全な生活を送る権利がそもそもない人なら、そういう生活があるということに気が付かず、ずっと虐げられていたなら、昔の生活と比較して苦しむことはなかった。

ようやく与えられた平穏が、過去の傷をより浮き彫りにさせてきて苦しかった。

母といる時よりずっとずっと苦しかった。
母がいないのになぜ私はこんなにも心の中が不幸なのだろうか?と思った。

幸せな生活でこんなにも苦しむのなら、もうずっと虐げられた生活を送った方がマシなような気がしていた。本気で。
幸せな生活を送ることに後悔を覚えるようになった。

ずっと固く閉めていた蓋が壊れ、"私の心"が露見した。

久しぶりに見た自分の心はただただ脆く、汚くて、腐っていた。心によく似た別の何かという感情を覚えた。

虐待を受けていても明るかったあの頃の自分はもうどこにもおらず、むしろあの頃蓋をしてちゃんと向き合わなかった18年分の負の感情が毎日毎日襲ってきた。

やがて私は起き上がれなくなった。
目が覚めているのに、起き上がれない。
必要最低限の日常生活をこなすことができなくなった。そして、起き上がれず、ずっとベッドにいるくせに眠れない。本当に人としてまともに生きることが何もできなくなった。

そして、何年も何年も自分の感情と向き合うことを放置し続けたせいで、どうして自分がこうなっているのか、それすらわからなかった。自分が何を考えているのか、どう感じているのか、そんな簡単なことすら何もわからず、ただただ理由もわからず何もできない日々が続いた。

(今でこそ当時どうしてそうなってしまったのかがわかるし、当時の記憶と照らし合わせたり、治療を受けて気がついた自分の感情を元にこの記事を書いていて、当時は本当にわからなかった。)

起き上がれなくて休んだ実習の先生に、謝りに行った時、「どうして休んだの?」と聞かれて、「風邪をひいちゃって...」と答えた。
正直に答えると心配されてしまう、と思ったバカな私は、自分の作り上げた明るい人というイメージを崩したくなかったのだ。

今思えばその先生はすごく優しかったから本当のことを言ってもよかったなと思う。
でもこうして、自分のイメージを壊したくなくて、適当に嘘をついて取り繕って、そして、前より深い苦しみに溺れることを繰り返していた。

もう自分ではどうにもできなかった。

大学生活はおろか、日常生活すらまともにこなせない人間に、毎日ある実習や授業など到底こなせるわけもなく、私の目の前には「留年」「退学」「休学」という選択肢しかなく、その中から私は「休学」を選んだ。

休学するにあたって大学の学生部長の先生、副部長の先生と話す必要があった。
そしてこの、学生部長の先生(と大学の学長)は親とおんなじ大学でしかも同級生だった。
そのため、私が休学するという話は私より先に私の親から聞いていた。

親は休学の理由をどう伝えたのかはわからない。
ただ、「もともと別の進路があって歯科が嫌になった」ことと、それから、「娘は今抗うつ薬と抗不安薬を飲んでいて、鬱のような感じになっており、休息が必要。」みたいなことを伝えていたことだけはわかった。

確かに、どちらともあってる。あっているが、
私としては、「私の進路を親自身が選んだこと。」「普段から虐待をしており、それにより娘の精神が不安定になってしまったこと。」
を伝えて欲しかった。

私のメンタルの不調は私のせいだけではなく、環境要因もあったということ、そしてその環境を作りあげたのは紛れもない親ということを伝えて欲しかった。

でももちろん、親が自分からそんなことを言うはずがない。

私は私のせいで体調を崩し、休んでいる。
そして親はそれをすごく心配している。

それだけが先生に伝わった。
何も知らない先生は、
「お母さんと連絡取ったりしている??」とか聞いてくる。
連絡なんてとるわけがない。そんな間柄ではない。なのに何も知らないから、聞いてくる。

もう言ってしまおうか?言った方が楽なのではないか?と、何度も何度も考えた。
でも大学の先生は学生に虐待されていたことを伝えられても困るだろうと思い、私はそれを伝えることはなかった。

伝えなければ、私が虐待をされていることなど気がつくワケもなく、普通の親子だと思われる。

なので、先生方からの親に関する何気ない一言で傷ついてしまう。
そうしてまた、誰もわかってくれない、という悲しみを深める。


私はこの、誰もわかってくれないという孤独を深めてしまい最終的には自殺企図をした。
本気で死ぬつもりだったので未遂に終わったのがいまだに悔しい。

自殺未遂をして入院したHCUで初めて、他人にわかってもらえた!と思う出来事があり、22年間ずっと凍っていた何かが溶けた。
そのあとの精神科の入院でもやっぱり、他人にわかってもらえることが増え、徐々に安心して過ごせるようになった。

ただ、こうして人にわかってもらえることが増えると、今度はもっともっと、私を知って欲しい、わかって欲しい、なんでわかってくれないの?という気持ちが増えてきた。

この気持ちは私がもともと持っていて、そしてなかなか姿を現さなかったものが今姿を現しただけなのか、それとも、私がどんどん欲深くなっているのか、どちらなのかわからないが、以前と比べて私は他人にわかってもらえて遥かに幸せなはずなのに、そんなことも忘れて、以前とおんなじくらいの不幸感(不幸ではないので)を覚えている。

最初の、謙虚な気持ちと、感動がずっと持続すればいいのに、と思う。


私は最近アルバイトを始めた。
飲食系で接客担当である。
バイト先の従業員は私よりお姉さんであるおばあちゃんやおばちゃんが多い。
私は自分で言うのもなんだが、みんなにすごく可愛がられている。
バイトに行けば、
「○○ちゃん(私)、これあげる〜!」
と言われて、たくさんのお菓子やお酒がもらえる。

そしてよく、
「実家には帰らないの?お母さん悲しむよ」とか
「○○ちゃん(私)は本当に可愛いね、孫みたい。」と言われる。

私の親は私が帰ってこなくても多分悲しがらないしむしろ、変に地元に帰ると親は余計私に依存して、私がしんどい思いをするので余程ののことがない限り帰りたくない。虐待のことも思い出すし。

そしていつも思うのだが、こんな手首がズダズダで方親で虐待を受けてて、精神科のお薬を毎日4種類飲んで、時にはバイト前に頓服を飲んでいる私が可愛いわけがない。

死ぬことに失敗して、医療保護入院になったり、もう入院しないと決めたのに、飛び降りようとしたり、また首吊りに失敗して入院になるような私が可愛いわけがない。


ああ、本当の私がバレてしまったらどうしよう、嫌われるのかな??可愛くない、異常者だと思うのかな??
また私は普通の明るい子だと勘違いをされている。

過去も今も未来もずっと私は私を曝け出すことができず、勘違いをされてそして今までより深く深く苦しむのである。

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