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光武帝 劉秀が歴史上最強の皇帝説Vol.2

前回の記事で光武帝 劉秀の前半戦を語ってきました。

宿敵王莽は赤眉軍に倒されたものの中華は赤眉軍、更始帝、その他にも賊の勢力が乱立する状態になってしまいます。

劉秀は更始帝の勢力ではあるものの、劉縯同様に更始帝一派に警戒されていることから、分離の道を歩むことになります。
一派間違えれば全面戦争となるところを薄氷を踏むように冷静に徐々に更始帝から離れていく劉秀の世渡りは大したものだと思います。



しかし、またもや苦難が・・・
占い師の王郎という者が劉氏の正統な後継者を名乗り出し、豪族が王郎を担ぎ上げるのでした。
そして王郎は趙で即位し、天子になります。

すでに更始帝が即位しているので、カオスな状態ですね。


劉秀は河北を平定に行っていたので、この事態の影響をモロに受けます。
一時、王郎側についた勢力が多く、河北で孤立、王郎勢力から逃げ惑う日々が続きます。
時には雪中行軍もして難所を乗り切っている描写もありました。

しかし劉秀はそんな中でも


“疾風にして勁草を知る“

劉秀の言葉 草原の風 宮城谷昌光


という名言を残します。

これは、凄く強い風が吹いて初めて強い草が見分けられることを言い、転じて、苦難に遭遇してはじめてその人の節操の堅さや意志の強さなどがわかるというたとえです。

これまで、劉秀の凄さを物語ってきましたが、劉秀はワンマンプレイではありません。
優秀な配下を従えていたのです。
その配下は劉秀に従って共に難所を乗り越え、劉秀から信頼を勝ち得ていたのでした。

配下達も蕭何、張良、韓信に並ぶ名将揃いだったようですが、そもそも劉秀のスペックが劉邦+蕭何+張良+韓信なので、中華の歴史の中では目立ってないみたいですね。

その後、王郎に反対する勢力と共に王郎を打ち破り、河北をほぼ収めるのでした。
そして、配下に推され光武帝として即位します。
ついには更始帝とも敵対することになりますが、更始帝は残念ながら行政手腕は王莽以下のため、赤眉軍に倒されるのでした。

赤眉軍、蜀の公孫述といった強敵とも連戦し、時には仲間を失ってしまいますが、光武帝は中華を平定します。

光武帝は行政手腕もあり、漢民族として国が栄えていきました。
ただ、各地の豪族を完全に切り崩せたわけではなく、中央集権を進めたことで、それがかえって後漢の滅亡、三国時代の幕開けになるのですが、この時代では最善の策と言えるでしょう。


こういった光武帝の所業は漢を復興させただけではなく、漢民族という中華のナショナリズムを生んだのだと思います。
このナショナリズムは中華を統治する中でも重要なファクターとなり、中華史だけではなく、世界史も巻き込んでいくのでした。


光武帝劉秀の偉業、みなさまは聞いてみていかがでしたでしょうか?
意外に知られていなかった事実、こんなにすごい人がいたのかと感嘆する方もいるのではないかと思います。

また、誰かすごい人物を見つけたら記事にしたいと思います。
それでは、また。

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