戯言

前書き

世界を変えるには、力が必要です。

権力。
人望。
カリスマ性。

大きな力がなければ、1人の力で簡単に世界を変えることなどできないのです。

変えることができない -つまり考えても仕方のないこと-世界がどうであろうとどうでもいい。

ここでいう世界とは、社会の大きな流れのようなものを指していますが、結局、誰がどう言おうが、周りがどれだけ批評しようが、私には関係ないのです。

関係ない。

関係ないはずなのだけれど、思わず見てしまうものがあります。

そう、Twitterです。

現在Xという名称になりましたが、ここでは慣れ親しんでいるTwitterと表記します。

Twitterのトレンドは基本的に争いに溢れています。見ていると心が痛くなるのですが、ついつい気になって見てしまいます。関係ない、と思う心はどこにいってしまったのか。

多様性

少し話が飛びますが、最近は「多様性」なんて言葉をよく耳にします。いわゆる「みんなちがって、みんないい」というやつですね。恐らく私は世代的にそういった社会で生きてきた人間だと思います。

では多様性を実現するにはどうすればいいのでしょう。

社会とは、多くの人が楽しく暮らしていくために作られるものだと思います。

その上で、すべての人間の意見を採用することはできません。もしそんなことをすれば、秩序が崩壊します。

ここで出てくるのが多数決です。

多数決

多数決とは、社会の合理的な決定手段だと思います。

多数決の起源はいつか分かりませんが、少なくとも紀元前5世紀頃のアテナイでは、多数決が使用された民会が行われていました。投票権の有無は身分の差があったにしろ、2000年以上はこの多数決という仕組みが利用されていることになります。

参考リンク:民会

Wikipedia

このことから、多数決というのは、社会をうまく存続させていくための手段 -社会の合理的な決定手段-と考えました。

ただし多数決の弊害として、少数派の意見が除外されてしまうという問題があります。

近頃見受けられるニュースでは、多様性の実現のため、(本当にそれが理由かどうかは実際のところ分かりませんが)少数派に配慮しようという流れがあります。もちろん、その気持ち自体は、多様性を推奨する社会において、とても良いことだと思います。

ただ、社会を存続させていく、という観点において、少数派に配慮しすぎるのはまずいのではないかとも思うのです。

なぜなら、少数派の意見を採用するということは、多数派の意見を採用しないということだからです。

もしそんなことをすれば、多数派から批判の声があがります。しかも多数の派閥なのですから、当然多数派の意見は多く、批判も大きく膨れ上がります。

その多数派に対してまた、少数派が批判をするというのは、Twitterでお決まりの流れのような気がしています。少なくとも、私にはそう見えています。

つまり私が言いたいことは、社会が少数派を尊重しすぎるのは、多数派と少数派の争いを大きくするだけ、本当はなかった争いでさえも生むことになってしまうのではないかと思うのです。

なので、社会において、多数派を主とすることこそ、少数派と多数派が社会存続のためにうまくやっていく秘訣なのではないかと思います。

本当にそれでいいのか

本当にそれが正しいのかというと、それは私にも分かりません。人によって感じ方は違う。私の思う社会の存続は、人とは感覚がずれているのかもしれない。答えは人それぞれ、つまり答えがないのです。だって多様性だから。

難しいですね。

私としては、自分が少数派なことに関しては、
不干渉であることが心地いい、と思いますが、そうではない人もいるでしょう。

答えのない問いをつらつらと書いても結局意味なんてないのです。私はここにこのような記事を書いて一体何がしたかったのか。

この考えをここに書くこと自体が、自分の個性をただただ人にぶつけることになっている可能性はないか。

この取り留めのない記事を読む人がいるのだろうか、どう思うなのだろうかと少し気になりますが、私としては偶然この記事を見た人が、ふーんと思ってくれるくらいがちょうどいいのかなとも思います。

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