ラベル付けが気になるお話

人間は大抵何かに属していて、ラベル付けがされている。大枠でいえば、人間は性別や国籍のラベル付けがされていて、個人情報などを書く際にもそれは適応される。今回はそのラベル付けのお話。

私は女性の区分けに当てはまる人間だけど、女性でよかったなって思うことがなくて、だからといって男性になりたいというわけじゃなくて、男女どちらにもラベル付けされたくなくて、何も区別のない無性別になりたいなと思う。

もし私が男性だったら、今のラベル付けに疑問を思わなかったのかは、その性別になってみないと分からないから何とも言えないけれど、女性という枠にラベル付けされて、自由が奪われてる気がして、仕方のないことなのだけど、どうしても女性だから〜とか言われると気になってしまって、もやもやしてしまう。

たぶん性別にかかわらず、こういう人って決めつけられるのが嫌で、もっと大枠で言えば、日本人というカテゴリーの中にもいたくないし、だからといってどこの国に属したいとかもなくて、ただそこにある存在としていたい。

ラベル付けされた自分じゃなくて、自分を見てほしいし、他の人に対してもラベル付けじゃなく、その人自身を見ていたい。

でもラベル付けはある程度仕方のないことなのかなとも思うし、何も知らない状態からみたら、○○だからこういう傾向があるのかなみたいには私も見てしまうこともあるので、ラベル付けしたくもされたくもないけど、ラベル付けすると便利なこともあるとは思う。

この絶妙な気持ちのバランスがむずかしくて、こんなこと考えるの自分だけなのかなとか、自分がおかしいのかなとも思って、こういう話はたぶん自分の闇が深くて、あまり周りに吐き出せないので、ここで吐き出しているわけなのですが、世界が創造されて人間が生まれた時に男女のつくりの違いが生まれたとしたら、ラベル付けされるのは必然であるし、この世界に生きてしまっている自我としてはそういうラベル付けがされることは仕方のないこととして諦めなきゃいけないのかなとも思ったりする。

ラベル付けをすることによって守られていることもあるわけで、そこの恩恵もあり、逆に被害もあり、仕方のないことではあるけれど、この気持ちの吐き出し方が分からず、どうすればいいのか分からないのである。ただこうやって吐き出してみることで、いつかのための、何かの答え探しにはなるのかもしれないとも思うのである。

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