言葉と美学の相対性

自分の言葉のみを愛さなければいけない。借りてきた他人のモジュールを作品に落とし込むなど君を敢えて失っているようなものだ。美しくまとめるのではなく奔り抜けてきたその残穢ひとつひとつに美しさが滲み出ることこそが美しさであり、それを形成する為の品位、経験、才能を培う過程に於いて初めて既出の措辞に意味が生まれるのだ。推敲は最低限に抑え、極限まで初期衝動を失わぬことがその作品の唯一性を生むのだ。
言葉を愛することは人生を愛することだ。故に他人の言葉を尊ぶことはある種最も本質的に対象を愛することであると言えるだろう。言葉には其々の人生が浮き出る。言葉を愛する形をとり自分を愛する者の言葉と言葉を真に愛し続ける者の言葉には訴求力に於いて圧倒的な差が生まれる。しかし自分を愛する過程で言葉を道具として扱う人間の言葉もまた、ある種純粋で真摯に穢れていると言える故、彼らの言葉にもまた異なる価値が生まれると言える。以上のことから、潔白で美しい言葉には必ず美しい人生が裏打ちされているのだ。
思考をするということは絶えず言葉を生み出し続けるということだ。故に大抵、いや殆どの人類は本質的には思考をせずに生きていると言える。故に生きることに一切の疑問を抱かぬまま死す。反対に我々は天命を一身に果たし続け、精神の本質を求め続けて居るからこそ、人生で死を身近に感じざるを得ないのだ。其々命の使い方は須く尊重されるべきだ。だがこと言葉に於いてはどうだろうか。言葉の質という一点で見ると圧倒的に思考を続けた者の言葉にこそ訴求力が存在する。自分の視界の際限の見ゆるまでを愛しそれを言語に落とし込まんとする心の気高さは、それを経験し継続する者とそうでない者に圧倒的な差を生んでしまう。美しさとは説得力であり、説得力とは普遍性である。故に全てを視る我々には美しさが生まれるのだ。
言語を含む芸術の分野ではしばしば生育環境の特異性を尊ぶ。これもまた大衆の持たぬ視野を持つが故の作品に於ける奇を衒った表現にとっての訴求力が生まれるからである。然し先に述べた通り作品の質は初期衝動と唯一性であるからして、生育環境に於いて特異性を尊んだ時点でその初期衝動はある程度失われてしまい、それ以降の人生は初期衝動の残穢を糧に絞り出し希釈していく作業に他ならない。故に私は過ぎ去った燦きは既に過去の自分という他人の作品であり、自分の言葉に落とし込むのは経験としての糧の範疇を超えた時点で盗作であると言う他ないと考える。故に私は絶えず過去の自分という仮想敵、並びに理想の自分という仮想敵に言語の唯一性に於いて勝るとも劣らぬよう常に己を研鑽し続けているのだ。
さて、主軸を私の話に据えるならば私自身生育環境に於いてある程度所謂特異性を持つ存在ではあるのだが、前述した通りそれ自体をアイデンティティにすることはアイデンティティの損失に他ならない。故に限りなくそれらを排斥しきった末の思考というものにこそ私は、普遍的な人生では表現不可能な純真さを表現し得るのだ。美しさは普遍的で唯一性のある説得力に裏打ちされるのだ。
勿論私の言葉と人生が存在単位の言語作品に於ける最善とは言えないだろう。だが私という天命に於いて私という時間軸の私的存在は、どの世界線のそれにも会得し得ない美しさと説得力を待ち合わせていると断言できる。

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