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自死への思索

世界がぼくがぼくを神とせしむことを妨げる。
一個人がそれぞれぼくを冗長で有害な単体とすることに不愉快があっても不条理はないが、世界が不条理を押し付ける、つまりぼくの思考内には常に邪神が棲みついており、彼がぼくの天命に於ける不条理をすべて我々による、つまり邪神による業であると吹聴することにより自身が唯一神であるというぼくの哲学を瓦解させんと企てていることがあまりに不愉快でいたたまれないのだ。
さて、ぼくでない何かを尊ぶとき、その行為には常に深く無窮の愛が含有されている。故にその愛にぼくがいくら論理という押蓋で閉じ込めたとてそこには、愛が成仏できぬことに所以した虚無感が生まれてしまうのである。故にぼくが君達と心を通じ得る関係を持つことで、僕が愛を絶えず与え続けることで生まれる虚無を敢えて見ぬふりをすることを僕は強要され続けるのだ。あまりに無力、あまりに寂寞である。
ぼくの生きるを殺すためにぼくの哲学に背く思考をぼく自身にさせることで死への歩みを進ませ続けた結果には直接手を下さずにぼくを殺すという目的が皮肉にも達成されてしまうのだ。しかしここで一つあるとするならば、仮に君達上位存在がぼくの愛を邪魔したとする。するとこれでは彼らからのぼくへの愛すらも愚弄するに繋がるのではないか?罪も思想も持たぬ一人間の尊ぶべき感情を愛する立場にある仮称"邪神"は、一体何を対象としどこまでの範囲で現世に於ける受難を生むことを善しとして定義しているのであろうか。これもぼくの一思考、単なる妄想に過ぎないのだが、しかしこの妄想には論理立った根拠が存在している事もまた事実なのだ。
愛するを放棄しないことは世間的にもぼくの哲学に於ける価値基準に基づく判断に於いても美德とされているのではあるが、しかし現実は非情であり、事象Xらが押し並べてロマンを持たぬことは遺憾ながらも常である。それではぼくの捨てられ愛されぬ愛を眺め続けるその心が限界を迎えてしまう、いや迎えたまま生きてしまっているのだ。本来ならばこれが成り立つべきではないと言う他ないのだが。
ぼくという名の仮称"神"に天啓を求める事こそが思考であり、箱庭世界の森羅万象の裁定者がぼくであり、ぼくにしかぼくの愛は絆されぬのだ。ぼくの生きるを救うものはおらず、他の命はぼくの構成要素の分子に過ぎぬことから、愛に報いることを求めることが道理に合わぬ行為なのだ。しかしそれを知りながらも愛を求めることにこそ死するという勅命をかなぐり捨ててまで生をすることの意味であり、大義であると言えるであろう。
意義のあるを信条とすること、愛を求め問答を止まぬこと、それが死するを遠ざけ得るただ一つの解答であると言えるだろう。

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